TOP > 慈光通信 > 慈光通信 第173号

慈光通信 第173号

2011.6.1

すべての患者に聞いた食生活の傾向から  3

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

【この原稿は日本有機農業研究会主催第四回全国有機農業大会における梁瀬義亮前理事長の講演録です。】

 

 

生活と生命力を探る実態調査

 

 

いろいろの地方を見て、いろいろな方の例を考えてみると大体の人間には、例外は別として一定の期間、70年なり80年なりを健康に育つ力がある。これを「もとの気=元気」というのだということがわかってきまして、ともかく元気=生命力の発現を阻止せしめる要素を探し求め、そしてこれを除去する方法を考えなければならない。それでなければ臨床医としてはいけないのだと考えたのでございます。ご存じのとおり、「生命に関する無知が人間の知恵の特徴である」と有名なベルグソンの名言がございます。生命というものは、私達にはわからない古来からの大問題ではございますが、その時また私は思ったのです。
先程申しあげたような例を思い出しながら、私は生命の発現の一つの場であり、そして形である生活を調べてみようと思いました。病気というものを現代医学では、病気という時点で見ておられます。これを生活という場に結びつけて病気というものを考えてみようということでございます。火事もそうでございます。火事の起こった時点で考えると非常に複雑なものであり、またこれを治めるのに大変な労力と費用を要します。しかしながら、火元という時点と結び付けて考えてみると案外簡単であり、これを治めるのに労力はいらない。
そこで、私は一万人の生活調査を悲願にしたのでございます。ともかくわからない。単純条件で調べるだけでは分からないことがある。とにかく知ることだ。沢山の例にあたってみるのだ。そうすれば何か出てくるに違いない。これが私のその時の直感というか、きっと出てくるという私の勘なのです。
ともかくたくさんの生活と病気との関係を調べてみようと考えまして、一万人を目標にして、お出で下さる患者さんには全部食生活を中心にして生活を調べ、その病気との関係を調べました。それから患者さんだけでない、いろいろな家に出向いて行って、肉屋さん、魚屋さん、そこへ行ってはその家の食生活の状態とその家の一年間の発病状態を調べました。これは勿論複雑な条件下、この生活というファクターのあるモメントの中で調べるのですが、きれいなデータの出ないことはわかっていました。この調査を学会に出そうとか、発表しようというような気持ちはさらさらなく、ただ私一人が、臨床医としての良心を満足させるために、これをする以外に私の生きる道はないんだというような気持ちでやったわけなのです。
片っぱしから尋ねてまいりました。当時、昭和23年と申しますと、非常に食糧の困難な時代でしたが、一部にはヤミ景気とか進駐軍関係に勤めている関係で、大変贅沢しておった方もおりました。あるいは紡績工場に入ってそこにいる女工さん方、労働条件、食事条件が一定しておりますが、彼女らは全部、このいろいろな食べ物を足しているわけです。その食べ物の種類と健康の状態の調査、あるいは当時は砂糖が手に入ることは少なかったわけですが、一部の方は砂糖は非常に豊富だったのです。この砂糖のたくさん入った方の条件と病気とがどの様に結びつくだろう。また労働者の飯場へ入りまして肉体労働と病気との関係、また、肉体労働をしている土工さんと座業している箸職人さんやお部屋の職人さんとは随分違うわけです。そういう、どの様な肉体労働と運動にどの様な差異があるものか、いろいろと調べてみました。そして昭和27年までやりました。
同時に、健康法をやっておられる方を尋ねました。西式健康法、桜沢如一先生の食養会、二木先生の会、いろんな方のところへ行って、その方々の生活を調べたわけです。あるいは結核家族の生活といろんな状態を調べてみました。いろんなものを無我夢中にやりましたが、やっぱり予想通りきれいなデータは出ません。例外ばかりです。
けれども、たくさんやっておりますうちに、こういう食事をしておる人が健康だ、こういう食事をやるとどうも病気が多い、ということがわかってきたのです。それが、私が学校で教えていただいた、私に当時あった栄養という考え方と随分違うのでいささか戸惑ったものです。

 

 

本来の栄養学とは

 

 

当時の私の頭では何といっても、やはり栄養をたくさんとっている人が丈夫だろう、その時分は栄養失調が多かったですから、特にご馳走に対する憧れは強うございました。充分に栄養を摂っている人が病気が少なくて、まずい物を食べている人が病気が多いだろうと思ったのですが、どうもそうじゃないのです。特に農村を調べた時が著明でありました。
当時農村は非常にヤミ米で景気が良く、一尺祝いというのがあって、一尺百円札がたまると祝いをしたくらいで、その農村で生活改良普及員が入って食物を変えなさい、動物性のものを食べなさい、とどんどん勧めたわけです。そこで裕福な農家は食生活をがらっとかえたのです。ところがヤミ景気にあずからない農家は、昔のままの食生活をやっておられたわけです。この差なども調べてみると特に著明になっておるのですが、そういう結論を得て驚いたのです。
正しい食生活とはどういうことかについて、昭和26年頃になりますと、大体わかってきたものですから、まず私自身、私の家族に一つの生活方法をかえてやってみたのです。家内が病院で一生懸命働く私を気の毒がって、何とか栄養をやらなきゃいかんと思って、なけなしの財布をはたいて私にいつもご馳走を食べさせてくれたのです。私も有難くいただいておったのですが、その私が病気ばかりするんですね。時々「あなたは弱いからねえ」といって嘆息をもらすので、何しろ面目を失ったことがあるんですが。私が、よく病気になる、よく肩がこってしょうがない、その原因がどうも家内のご好意であったということに気が付いてきたのです。そして、麦御飯にし、いろいろやってみました。そうしたら大変元気になってきたんです。家内もそのような私を見ておって、そして一緒になってやってくれて、私のように元気になってきたんです。
それに昭和27年に、有名な近藤正二先生が全国の長寿村、短命村の食生活をお調べになられ、その中間発表がちょうどあったのです。その仰っておられることが、私が出してきたのとそっくりの、本当に瓜二つのご説であったものですから、大変自信が出てきました。それで、初めびっくりしたんですが、段々と自分のやってきた、見つけてきた健康な食事の傾向に自信を持つようになってまいりました。
大体現在なされているように、学校給食でもカロリーと動物性蛋白、これをまず栄養士さんがお考えになります。白米・白パン・肉・白砂糖、こういうものが私達の食事の中心になっております。白いご飯にお魚なり肉なりを食べ、これに付けて野菜とか僅かな海藻であるとか果物、このような食事パターンが現在日本人の食事パターンでして、これは非常に病気の多い食事であるということがわかってきました。
では、どういう食事が良いかというと、「黒いお米」三分搗きなり半分搗きなりのお米・麦飯これも非常によかったのです。それに野菜を多く摂とり、海藻をいただき、大豆をとり、植物性の油を大黒柱にして、これに動物性のものを添える。砂糖、塩が比較的少ない食事、この様な食事パターンが健康な食事パターンだということがわかってきたわけであります。
動物性のものの中では、いろいろ調べましたが、私達がその当時憧れておりました肉類が一番よくないということがわかってまいりました。肉食をたくさんするご家庭に非常に病気が多い。例えば、牛肉屋さん、あるいは大変裕福であって、米国製のハムやソーセージ・ベーコンなどをたくさん消費する家、極端な例は農村でこの生活改良普及員の方から聞き間違えたんだと思うのですが、野菜には栄養がない、動物性のものは栄養があるという風に聞かされて、全く動物性のものばかりで生活しておられる、こういう方に病気が多くなる例もあったことがあります。また、動物性の中では魚が一番日本人に合っていることも判ってまいりました。それから乳製品や卵・肉が一番日本人に合わないこと、それがたくさんの調査からの私の結論でございます。
振り返って考えてみますと、当時私が信じておりました、学校で習ったところの栄養学、フォイトやルブナーの論を中心とした栄養学、カロリーや動物性蛋白を非常に重要視していたこの栄養学は、人種だとか土地、気候風土の差とかあるいは歴史や習慣の差とかが無視されていました。また、当時の昔の栄養の本を見てみると、この栄養を与えるとネズミが早く大きくなったとか、どれ程目方が増えたとか、そういうことが主であって、よくよく考えてみると肥満児をつくるような傾向があるんではないかと考えられたのでございます。
私はたくさんの方の実生活からこういう「黒い米」と麦と野菜・海藻・大豆・植物油を中心としたものが健康な食生活の型であること、ただし植物油を摂り過ぎた方には病気が出てくる。植物油でも摂り過ぎては良くない、こういうことを知りました。それから果物が野菜の代用にはならないことも調査例から知ったのですが、やはり近藤正二先生も言っておられました。そして、日本の土地、いわゆる火成岩性の酸性土壌、ミネラル欠乏の起こりやすい、そしてモンスーン気候の土地柄で正しい栄養がこういう型で摂られるものだということを考えたのです。
(以下、次号に続く)

 

 

川岸春雄氏を悼む

 

五條市の東部、街の中心部から数キロメートル、途中、国宝栄山寺の美しい建物を左に見て吉野川沿いを上流へと進むと、南北を深い山に囲まれた傾斜地に棚田が広がっています。そこには数軒の民家が点在し、山懐に抱かれ、吉野川の満々たる清流が奇岩の間を流れ下っています。霧の深い時は、まるで中国の山水画のような風景となり、この雄大なる自然は、吉野熊野国定公園の一部になっています。この美しい自然の中で、慈光会協力農家の川岸さん一家が農を中心とした生活を営んでいらっしゃいます。
昭和49年、慈光会は財団法人として認可を受け、本格的に活動を開始しました。最初は完全無農薬有機栽培の野菜と自然食品の販売から始まり、これが当会の大きな第一歩となりました。慈光会販売所の設立にあたり、協力農家として無農薬栽培に携わり、通年の野菜の出荷を快諾して下さったのが川岸さんでした。
川岸さんは昭和30年代、近代農業(農薬、化学肥料を使用した農法)に熱心に取り組まれた結果、重症の農薬中毒に襲われ、慈光会創設者である梁瀬義亮前理事長の診療を受けることになりました。その後日増しに快復され、ご夫妻は前理事長指導のもと、完全無農薬有機農法の道にすすむことを決意されました。近代農業をなさっていた頃は、一足先に有機農法を実践されていた川岸さんの奥様のお母様から、作ったお米を「臭い」といわれ、ショックを受けられたそうですが、有機農業に切り換えると、収穫したお野菜は次第に「甘い」と評判になり、農薬を使用せず、自然に寄り添って栽培されたお野菜が、いかに生命力にあふれ、滋味深いかということを改めて実感されたそうです。当時、有機農法だけで生活される生産農家は非常に珍しく、全国の有機農法を志す人々の先駆けとなり、全国から多くの方が見学に訪れ、そこにはその方々を温かく迎える川岸さんご夫妻の姿がありました。以来40年近く有機農法に真摯に取り組まれ、愚痴や小言を耳にしたことは一度もありません。また、気風のよさは人一倍で、おおらかな性格も手伝って多くの人に愛されていらっしゃいました。理論や空論が先行しがちな現代において、現場主義を貫き、畑で野良仕事に精を出されるお姿は非常に尊いものでした。
そんな土を愛し、農を愛した川岸春雄さんは、先月5月25日、82歳の生涯を閉じられました。
最後のお別れのとき、美しいお花に包まれ、棺に納められた川岸さんの浅黒く日焼けし、にっこり微笑んだそのお顔は、82年の満ち足りた人生を物語っておられるようでした。大自然の中、広い大地にある川岸農園は、ご主人を送られた奥様、娘さん、そしてお二人を囲むご家族に受け継がれます。これから先、野菜を通して静かに美しく私たちに健康をお届け下さいます。
川岸さんの御冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

農場便り 6月

 

真っ赤に頭を飾りつけた雄キジが悠然と目の前を横切る。少し離れた草むらの中からまた別の雄キジが自らのテリトリーを誇示するかのように大きな声で雄叫びを上げる。山の木々が次々に花を咲かせ、うす紫の三つ葉つつじから山つつじへと花は進む。百花繚乱の華やかな色が合い交わり、木々の葉が茂り大きな生命を感じる。
春先より始まった苗の定植も今盛りとなり、「後から後へとよくこれほど種まきや植え込みがあったものだ。」とため息交じりに呟いてみる。種まき、植え込み、潅水… ずっと続くこの地味な仕事、同じことの繰り返しで少々飽きもくる。腰を曲げ、キャベツやレタス、スイートコーン、シソ、ネギ、スイカにゴーヤ、ナスにオクラ、次から次へと地ならしをした畑に植え付けてゆく。早くから栽培されている作物は、後から植えられた後輩たちに優しくエールを送るかのように、春風にゆれる。
畑の中央でぐっと天に向け、先を細く尖らせ、厳しい姿で春の陽気に浮かれることもなく、他の野菜たちを少々クールに横目に見ている作物がニンニクである。以前にも紹介させていただいたが、ここ2、3年ニンニク栽培が思うように行かず、収穫前に茎が腐ったり、乾燥中にスカスカになったりと、年を増すごとに自信を喪失してしまった。家人から「今年のニンニクの調子はどう?」と聞かれるたび、考え込んでしまう有様である。これではいけないと一念発起して対策を考える。まず、圃場の環境。標高350メートルと栽培地としては別に問題はない。次に土質、粘土質の古生代の礫岩属に岩ぐされと言われる土壌で、pH値は極めて低く、雨が続くと土中の根が窒息し、野菜の生育が悪くなる。この土に完熟堆肥を多用することにより、リグニンやペクチンが多い土壌となり、水はけや通気性が良くなる。pH値は石灰や堆肥を入れることにより改善される。この35年、堆肥を入れに入れたが、まだまだまだ完全な土には程遠い。何もせずとも作物が豊かに実る農耕地は、何百年もの時間を経て、農民達の努力によって作られた宝物なのだ。肥料は、元肥として大量の堆肥、追肥には今や高級肥料となってしまった油かすを施す。品種は青森の六片ニンニクと、中国でよく栽培されている原種に近いものを使用する。植え付け時期は、今までは9月下旬から10月上旬とされていたが、温暖化の影響で年内に生育し過ぎる傾向にあるため、10月中旬とした。畝の上には除草を軽減するために黒マルチを張り、15?から20?の間隔で植え付ける。黒マルチは、今までは収穫期まで張っていたが、4月中旬から5月上旬は日射しが強く地温が上がりすぎるため、4月に入ると取り除く。5月下旬現在、青森六片ニンニクは見事に茎と葉は太く大きく育っており、6月上旬頃には大きなニンニク球を収穫できる予定である。「とらぬ狸の皮算用・・」とならぬよう、手を抜かず気を引き締めて作業を続ける。収穫したニンニクは根を切り、高所に吊り下げ、約一カ月ほど乾燥してから冷蔵庫の中で保存し、逐次出荷をする。そうして保存していても実がスカスカになってしまうものもあり、「ひと昔前なら放っておいても立派なものが出来ていたのに、簡単だったニンニク栽培がこの頃作りにくくなってしまった。」という農家の方の嘆く声をよく耳にするようになった。各国の料理に使われるニンニクは、栄養価も高く、何よりも他の食材を深い味わいに導く魔法の食材である。是非、和・洋・中と色々な料理にご利用いただき、食文化を楽しんでいただきたい。
今、世界中が最も注目しているのが福島県である。放射能の危険性に関しては我が国以上に他の国々は警戒を強める。先日からの国会中継を見ていても、まさに重箱の隅のつつき合いで与党も野党も話にならない。素人の私ですら聞いているのが恥ずかしくなってくるくらいで、日本のトップが「日本の労働者は世界一を誇る人材である。逆に国民を指導する立場にある政治家や官僚、企業の経営陣は、世界でも最低クラスのお粗末さである。」と発表した。一日も早く東北の地に、そして福島の地に平穏な日々を取り戻すことが出来るよう心より願う。
5月下旬、水田の一角に苗代が作られる。それと同時に夜、カエルの合唱が始まる。日課にしている夜の散歩であるが、秋から冬にかけてはお月様と冬の星座を楽しむことが出来、この時期はカエルのオーケストラが演奏を始める。じっと耳を澄ませて聞くと、色々な音域の鳴き声が聞こえてくる。時間が経つにつれ、音量は益々ヒートアップし、カエルの交響曲が夜道に響き渡り、足を止め聞き入る私を楽しませてくれる。彼らは、一晩中自身の楽器を奏で、平和で楽しい時間を過ごすのであろう。
贅沢は次の贅沢への道のりにすぎない。事足りることを自らが知り、身の丈に合った生活を送ることが何よりの幸せへの近道である。原子力エネルギーに力を借りてキラキラと輝くネオンより、水田に張られた水面に映るお月様、そしてカエルが奏でるコンツェルト、何と平和な世界であろうか。

 

 

ホトトギスのけたたましい鳴き声のする農場より