慈光通信 第238号
2022.4.14
有機農法についての私の体験と意見 Ⅱ
前理事長・医師 梁瀬義亮
【この原稿は 1978年 3月号「月刊たべものと健康」に掲載されたものです】
生命の農法
生活、特に食生活調査に専念していた私は、昭和27年秋食生活の基本である農作物が化肥で育てるのと堆肥で育てるのと、その育て方の差によって成分に著しい差のあることに気付き、農学の研究の必要を感じました。そして間も.なく気付いたことは、近代農法も現代医学と同様植物の「生命力」と「生態学的存在」という事実を軽視乃至は無視して、むしろ「植物工学」になっていて、然も農業本来の目的である人間の健康のための食糧生産という事を忘れて、量産のみを目指している事でした。
私は「生命の農法」(生態学的農法)を追求しました。死んだ植物体の分析や短期間の単純条件下での実験データの寄せ集めではなくて、健康な農作物、不健康な農作物の農場そのままの実態を数多く観察し、それと植物の生活条件即ち肥培管理等との関係を丹念に且つ数多く、また各地方に於いて調べて廻ったのです。特に篤農家のご意見をよく聞き、その田圃を観察させて貰いました。そして得た結論は、栄養、美味、健康な農作物は化肥では得られず、有機質肥料によってのみ可能であるということでした。
農薬の害
昭和29年から悪名高いホリドール(パラチオン)が稲作に使われはじめ、ついで果樹、蔬菜にも盛んに使われる様になりました。つづいてエンドリン、E・P・N等々猛毒の農薬が次々と登場しました。戦時中機械化部隊の隊附き軍医を勤めて、毒ガスについての知見を持ち、また毒ガス事故をも体験していた私は、これ等の使用の危険性を説いて反対しましたが無視されました。
私は農民の被害について注意すると共に、農薬の多用されている地帯とそうでない地帯の昆虫の状況を調べて廻りました。そして知ったことは、常識とは反対にホリドールやエンドリン等強力な農薬を使用する地帯は、二~三年経つと却って虫害が甚だしくなってくるということでした。
昭和31年秋頃から、奇妙な患者が私達の地方に多発しました。亜急性肝炎とノイローゼ、口内炎、胃腸障害等がミックスした病気です。これが農薬によるものである事を、昭和34年2月に確認しました。
同年秋農薬使用地帯に却って多くなる虫害の原因は、益虫の滅亡と抵抗性害虫の多発によるものであることを確認しました。
この頃九州大学上松教授及び同教室の森本先生のお教えにより、地球上で最も適応性と生活力のある強い生き物は昆虫であることを知り、昆虫を毒殺することによって人間の食糧を確保せんとすること、すなわち農薬使用は原理的に誤りである事を知り「完全無農薬農法」の研究を始めました。そして間もなく知った事は、人間の場合と全く同じで、健康で生命力が旺盛な作物をつくる農法が、そのまま無農薬農法である事でした。
土中の生態系
この頃土中の生態系についていろいろと教わりました。地表から30センチメートルまでの深さまでの地中には、一つの世界が展開しています。数限りないバクテリア、カビ、藻類、原生動物、円形動物、昆虫類等々……が生棲して生態系を作っています。植物の根もこの生態系に関与し、様々の養分(ビタミン、酵素、脂肪、蛋白質や様々な炭水化物等々……)をここから吸収します。
また植物の根もいろいろのものを与えます。植物の健否はこの土中の生態系の健否と密接な関係があります。恰も人間の健康が腸内微生物の生態系と密接に関係する如く。
自然界の生態系と人類
自然界では植物が生産者で複雑精巧を極めた有機質を合成し、動物は消費者でこれを直接、間接に食べて生存し、動植物の屍体や排泄物を分解者である微生物が分解し(この時地上のものはすべて好気性菌が分解する)、その分解終産物が地中に入って再び植物の生産に役立つ、所謂「生態学的輪廻の法則」が行われています。即ち地球上では自ら好気性完熟堆肥農法が行われて、動植物の生態系が維持されています。この生態系が人間にとって有利であったからこそ、人類は繁栄し増加して来たのであって、若し自然がつくる生態系が人類にとって不利なものであったならば、人類はとっくの昔に食物を害虫に奪われて滅んでいた筈です。好気性完熟堆肥農法によって人類は栄えてきたのです。
(以下、次号に続く)
農場便り 4月
お日様の光が変わった。生命が失われたかのようであった冬の山も冬眠から覚め、木の幹や枝の樹皮が白く変化し、放つ大きな息吹に生命が感じられる。
この時期、群化したヒヨドリが冬を越した渋柿の実に群がり一気に食べ尽くし、続いて畑の作物へとその目を向ける。ヒヨドリの好物はキャベツとブロッコリー。ヒヨドリに狙われる当園の作物を守るため、畑に鳥除けの糸を張り巡らせる。
近くの雑木山では藤が大きな木に絡みつき、高所に付けた実が音を立てて爆ぜ、より遠くへと種を飛ばす。中には50m以上離れたところまで飛び、地上に落ちた種を見たこともある。それから一週間、藤の奏でるこの音は山の音楽会に不可欠な楽器となって畑に響き渡る。
終日畑の中を走り回る耕人の足先にも春への変化が訪れる。今冬の最低気温はマイナス7度。長年の暖冬で忘れていたしもやけが、27cmの可愛いあんよの中に住み着き、痛痒い冬を送った。これも春の風が良薬となり、日々回復。ここにも春が来た。
春は恋のシーズン、朝夕の行き帰りの際に横を通る大きな貯水池の水面を、カイツブリのカップルが仲睦まじく泳ぐ。以前にはこの池でおしどりの姿を見かけたことがある。仲の良い夫婦を「おしどり夫婦」という。が、学問は時として人々の温かい心に水を差す。遺伝学・ゲノム科学を駆使してDNAを調べると、何と仲の良い筈のオシドリのつがいが育てたヒナに他の遺伝子が混ざっていたというのである。これを耳にした時、「おしどり夫婦」の神話は根底より音を立て崩れ去った。多くのことを知るという事はその反面、多くのことを失い不幸を生むという事でもある。すべて物事はほどほどにという事であろうか。
3月15日、春の到来と共に、吹きさらしの苗場で無事に冬を越したキャベツの苗を山の畑に定植。そして今夏6月から逐次収穫、7月中下旬まで収穫を行う。7月に入ると空気は高温多湿となり、キャベツにとっては最も辛いシーズンとなる。収穫の際、結球したキャベツの底に腐敗がよく見られる。この腐敗から作物を守るため、最小限度に施肥し、作物の免疫力を最大に引き出す。それが今までの経験から得た当園のキャベツ栽培法である。これは地球上の他の生物にも共通し、人間でいえば高タンパク高脂肪の摂取過多は免疫力が低くなるという。耕人にとっては耳の痛い話であるが、人間は生まれ持った三欲は中々自分ではコントロールできないものである。
3月に入りゴボウの播種を行う。2月から耕運し細かく耕された畑にトラクターで軽く畝を上げ、上部をきれいに整地した後、手動種まき機「ごんべい」が登場。「ごんべい」でゴボウの種を地上に均等に落とし、その上に土をかけ転圧。私は只々機械を押すだけのいたって簡単な作業ではあるが、種に掛ける土の厚さが唯一プロの技が輝くところである。厚すぎると発芽せず、逆に浅すぎれば種が地上に顔を出し、これもまた発芽率が悪くなるなど微妙な調整が必要となる。播種をしたゴボウは晩秋から冬用で正月のお節にも顔を出す作付けとなる。
ゴボウは遠くユーラシア大陸より中国を経て日本海の荒波を超え、日本では1200年前に既に栽培され、他国では薬用として使われていた。日本では食用として栽培がおこなわれ、栄養価高く地中深くから吸収するミネラルや水溶性食物繊維が豊富に含まれ整腸作用もある。しかしミネラルなどの栄養分は水に溶けやすいためアク抜きは出来るだけ短時間で水から上げた方が良い。
先日畑に蒔いたゴボウは、気温の低さも手伝って発芽まで2週間かかった。生育温度は20~25度、地下部は何とマイナス20度まで耐えることが出来る。エアコンに守られる現代人は少々見習わなければと思う。しかし、自然災害や病虫害にも極めて強いゴボウにもいくつか弱点がある。一つは水分過多を嫌うという事で、根を土中に伸ばすゴボウは水分が多いと根腐れを起こすため、水はけのよい畑地が適している。他には酸性土壌を嫌い、土壌のpHを整えなければ双葉の色が黄色くなり、いつの間にか姿を消してしまうこともある。残念ながら当園の土は強酸性に加え粘土質と悪条件が整っている。そこでpHの改善には石灰を散布した後に土を耕し、播種後にも蒔いた筋の上に軽く石灰を振り、ゴボウの赤ちゃんを酸性土壌から守る。これまで何十年と堆肥を入れ続け、土づくりをしてきた畑の土は当初に比べるとかなり良くはなって来たが、まだまだ粘土質は強い。他の畑は手で掘れるぐらいの柔らかさだが、山の畑は元々の粘土質に加え、重機で岩を砕いて開墾したためさらに粘土質が強くなっている。次世代のためと大量の堆肥で生きた土を作ることを常に念頭に置き、作業を進める。粘土質の土壌での栽培は砂地に比べ、形・色共に劣るが、味と香り、栄養価で敗けることはない。
春の光を浴び、雑草の芽はゴボウの発芽よりも早く健やかに育ってゆく。小さな冬ゴボウの隣では、昨秋の11月に播種をした夏ゴボウが冬の寒さに耐え春を迎えた。日増しに芽は大きく育ち、葉を広げるまでになった。一旦、成長に火がつくとこれほど凄まじい成長を見せてくれる作物は少ない。ゴボウを植え付けてからは先が二股や三つ股にならないよう、肥料はほとんど入れないで作付けするにも拘らず、勢いよく成長する。除草作業は一度終えているはずの畝に緑豊かに雑草が生い茂り、若ゴボウと雑草の熾烈な争いが始まる。他の作業が目白押しのため、手で除草するのは不可能、さてどうするかと天を仰ぐも答えは返って来ず、結局除草作業に二週間を費やすこととなった。
ビニールトンネルの中では多種の苗が育つ。夏ネギの苗はすべて畑に定植を終え、後を追うように白ネギの定植も始まった。青ネギの苗は15㎝に開けた穴に差し込んでゆくだけだが、白ネギは一本一本深い溝の底に植え込む少々面倒な作業である。しかし、太く長く真っ白に育った白ネギを炭火で塩焼きし、熱々を口に運んだ時の幸福感を想い、労を惜しまずせっせと世話をする耕人である。
もう一つ、春の大切な作業がある。雑木の芽がまだ固く閉じている3月上旬、雑木山と畑の際を挙動不審な男が徘徊する。周りをキョロキョロと見回し、時には屈んで何かを白い袋に入れてゆく。その不審者とは耕人、私の事である。年に一度の作業で、春の陽気に誘われ芽を出したふきのとうを摘み取ってゆく。降り注ぐ日射しに茎を持ち上げすぐ花を咲かせてしまうため、2,3日が勝負で、まだギュッとしまった蕾をそっと摘んでいく。先客の鹿が所々花芽を食い散らかしてはいるが、まだまだたくさんの蕾が美しい新緑に輝いている。早々に持ち帰り、ふき味噌やしょうゆ煮にと調理する。残りはてんぷらにして無事お腹の中に納まった。ほろ苦さが癖になる味に春の夜を楽しむ。
農作業をしながらも常に想うのはウクライナのことで、目に焼き付いた惨状が一日中頭から離れない。幼い子供や女性、老人が戦火にもがき苦しむ。祖国のため若き者は勇敢に死をも恐れず大国に挑む。中には若き女性の姿もある。第二次世界大戦時、ウクライナの地は民間人を含め、数百万の人が大地に眠った。見渡す限りに広がるひまわり畑、この地はひまわり油の一大生産地でもある。反戦映画「ひまわり」で、大きく咲く花の輪が風に揺れる風景と流れる音楽に涙した若い頃の思い出がある。70年経った今、またこの地で悲惨な戦いが繰り広げられている。
アインシュタインは生前、記者の質問に対してこう答えた。「第三次世界大戦がどのように行われるかは私には解らない。だが第四次世界大戦が起こるとすれば、その時人類が用いる武器は石とこん棒だろう。」この発言は何を意味しているのだろうか。
戦火で焼き焦げたウクライナの街で老婆がロシア兵のポケットにひまわりの種を入れるよう促す姿が映し出された。その老婆は「あなたが戦死し、大地に帰ったひまわりの種は平和な美しい花を咲かせるだろう」と言い残し去って行く。残酷でもありなんと寂しい姿であろう。一日も早くウクライナの地に春の陽とともに平和が訪れますようにと願う。
和歌山県有田にある小さな喫茶店のドアに一枚のポスターが貼られているという。そのポスターには力強い字で「プーチン入店お断り」と記されている。現状では決して笑うことはできないが、ウクライナに平和が訪れた後、このポスターを目にした人に思わず笑みが浮かぶ日が一日も早く訪れることを切に願う。
一日の農作業を終え、心地よい春のだるさが土にまみれた体を包み込む。山々の夕景は一日の疲れを癒し、心の中に平和であることのありがたさを教えてくれる。鳥は群れ、山の巣へと帰ってゆく。
東北の震災後、被災地で咲いたひまわりの種を蒔く農場より