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慈光通信 第247号

2023.10.16

健康と医と農

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

 

【この原稿は、1986年7月6日 西条中央公民館に於いての講演録です。】

 

 

病人が増えた

 

医学は非常に発達しまして、病院はたくさん出来、お医者さんも増える。良い薬はたくさん出来る、また素晴らしい手術ができる反面、病人が増える一方なのです。どのくらい増えたかと申しますと、昭和30年には国民千人当たりの病人の数が37.9名、それが昭和56年には130.5名、59年には137.3名60年には145.2名、このように吃驚するくらい病人の数が増えてきている。病人の数が増えるということは医学としては失敗です。病人がなくなってこそ医学の進歩の意味があるのです。14兆のお金を医療に使っています。増えてくる病気が流感とか腸チブスとかの急性病ですと、治ると元の健康な社会人となるわけですが、現在どんどん増えていますのは、退行性疾患と申しまして、人間の体がばい菌と戦うのではなくて、ずるずる根元から腐っていくような病気、例えば癌、白血病、リュウマチが非常に多いのです。それから心臓血管系の病気、糖尿病あるいは色々な新陳代謝異常、例えば膠原病のようなわけの分からない、細胞が弱ってしまうような病気が多くなりました。殊に癌による死亡は恐るべきものがありまして、昭和56年には16万5600人の人が亡くなった。この時に癌は日本の死亡のトップに躍り上がったわけです。いままでは脳卒中で亡くなる事が多く、世界で有名だった日本なのですが、それを追い越して癌が増えてきたのです。それ以来年々増えて、昨年は18万7600人、毎年5000人から10000人位増えています。皆さんも癌には非常に恐怖心を持っておられるでしょう。若い人が癌で死んでいくような状態です。その他体力の低下、あるいは骨が駄目になってしまってすぐ折れる。それから心配なことは、重症身体障害児とか、知的障害児、ことに奇形児が多くなってきた。これがどんどん増えてきている、このような悲しい時代なのです。これは医療の発達と全く裏腹な話です。

 

延びた平均寿命

 

平均寿命が非常に延びたと盛んに言われています。確かに延びている。これがもし本当に国民が健康になって、そして寿命が延びるのだったら誠に悦ばしいことでありますが、先程から申しましたように、退行性疾患、生命力が低下してくるような病気が非常に増えてきている事と、寿命の延長とどういうことになるかと申しますと、これは本当の意味で国民が丈夫になって、健康になって、寿命が延びているのではないのです。主として医学上の抗生物質や設備のおかげで、明治、大正を生きてきた老人が細菌性疾患から守られ、長生きしていることは事実です。それから赤ん坊が肺炎や腸炎で死ぬことが多かったのが抗生物質や色々の施設に守られて死なない。だから平均寿命が延びたかに見えるのです。しかし妙な現象が起こっていまして80歳、90歳の長命で亡くなる方と一緒に、皆さんの周りでも四十や五十代の方が最近よく亡くなられます。

 

 

公害年齢

 

実は現在の平均寿命の延長は公害と非常に関係の深い、先程申しました退行性疾患、特に癌が死ぬ一番の大きな原因になってきた、この移行期に起こった一つの現象なのです。という意味は、公害と関係の深い病気が一番大きな死因になってきた。公害は大体昭和28年ホリドールが初めて使われた頃から起こってきていますから、現在で33年、老いも若きも公害年齢は33歳です。私はずっと患者さんを診たり、農村をいろいろ調査してきましたが、公害というのは合成化学薬品による慢性中毒なのです。農薬とか食品添加物とか合成洗剤、こういう石油化学から作った合成化学薬品が微量体の中へ入ってきて、だんだん慢性中毒を起こしてくるのが公害なのです。慢性中毒を見ていますと10年から30年くらい経ってこの害が出てくるのです。しかもこの害の出方が先程申しました慢性の退行性疾患、癌とかあるいはリュウマチとかこういった形で出てくるのです。癌、これは細胞の異常な新陳代謝で、細胞の回転が非常に早くなった状態です。それに対して細胞の新陳代謝がうまく回らなくなったのが慢性肝炎であり、慢性腎炎でありその他の色々な退行性の病気で公害の結果が出てくるのです。今まで私が医学教育を受けた時分は70歳を過ぎると癌は減る、例えもし出たとしても良性でかなり発育の遅い癌だと教えられた。ところが現在ではそうではない、若い人と同じように70でも80でも悪性の癌がどっと出てくる。公害が始まった時60歳だった人は90歳まで生きて癌で死ぬ。当時50歳だった人は80歳まで生きる。当時10歳だった人は43歳まで生きて癌で死ぬ。0歳だった人は33歳で癌で死ぬ。今でも三十代で癌が出ているでしょう。公害年齢は33歳であることをご銘記ください。

【以下、次号に続く】

 

 

 

室内の農薬汚染

私たちの暮らしの中には防虫剤や殺虫剤など、たくさんの化学農薬が使われています。衣類用防虫剤をタンスに入れておくと、いつの間にか量が減り、小さくなります。これは薬剤が気化して防虫効果を発揮すると同時に室内の空気を汚染しているのです。代表的な衣類の殺虫剤はナフタリン、これは直接手で触ると皮膚が赤く腫れ、炎症を起こすことがあります。また、防虫剤やトイレの防臭剤といった用途で使われるパラジクロロベンゼンも、頭痛、めまい、全身の倦怠感、眼・鼻・のどへの刺激、息切れ、嘔吐などの毒性があります。メーカーは毒性が低いと謳っていますが、発ガン性もあると言われ潜在的な危険性が非常に高い農薬です。実際に、慈光会でも、会員の方から寝室のタンスの防虫剤を入れ替えてから頭痛や喘息の悪化などの身体の不調についての相談を受けることがあります。

また、昔から使われているナフタリンや有機塩素系殺虫剤のパラジクロロベンゼンには独特の臭気がありますが、最近では無臭のピレスロイド系エムペントリンを使用した製品が主流になっています。これは害虫の神経に作用し、麻痺・痙攣をおこして死に至らしめるのですが、無臭だから安全になった、便利だな、ということではなく、無臭だからこそ意識せずに多用してしまい、気付かないうちに健康を害してしまう危険なものだという意識を持たなければなりません。

防虫剤にも消臭剤にも天然成分だけを使用した安全なものはあります。

室内にできる限り農薬を持ち込まず、また使用しないような工夫をしましょう。

 

 

 

農場便り 10月 

 

8月8日、立秋を越え処暑を迎えた。農場の空には秋アカネが涼風に乗り心地よく飛ぶ…と時期的には言いたいところではあるが、日々続く熱波の風にひたすら耐え、夕刻になり西の空がオレンジ色に美しく染まる頃、秋アカネはようやく群れをなし心地よい風に乗る。草の中ではコオロギ、外来種のアオマツムシが美しい羽音で鳴く。が、こ奴らは耕人にとっては秋の大敵、ようやく芽を切った小さな大根やカブ、時にはレタスの苗まで食害をして回る。

前号ではキャベツ、ブロッコリー、白菜など数多くの苗作りを紹介させていただいたが、それも9月中旬でほぼ終了、あとはレッドオニオンを残すのみとなり、それをトレイに播種すれば秋作の播種をすべて終えた事になる。

8月中旬、強力な台風が紀伊半島に向かっているとの気象庁からの発表、しかしまだ本州からはかなり離れた海上で方向も定まっていないという。「また大げさな」といつもの能天気が頭の中に芽生え、あまり気にもしていなかったが、3日後にはほぼ気象庁の予想通りの進行で一気に緊張が走る。このまま進めば明日にも最接近となるため、育った苗を暴風雨から守らなくてはならない。そこで、夕方遅くから急いで苗場で育つ色々な種苗のトレイ一枚一枚を丁寧に倉庫内へ運び込む。ようやく避難が完了した頃にはもう外は既に暗くなっている。結局、台風は紀伊半島の手前で大きく逸れたが、尋常ではない豪雨がこの地を襲った。

今年の暑さは作物の種子さえも殺してしまう異常な熱波であった。一回目に蒔いたレタスもほとんど芽が出ず、蒔き直しを余儀なくされた。今度は日覆いを掛け発芽した苗を育苗したが、徒長気味となり、思い通りには苗が育たない。高温多湿による苗の腐りなどで何種かの苗が成長途中に消えていった。それにも敗けず、また必要以上に深く考えもせず、蒔き直すことを繰り返す。第一次産業とはそんなものである。

8月も中旬を迎え、「さて苗の定植を」と作業計画を立てるが、外気温は35℃、これでは定植した苗は見る見るうちに焼き尽くされるのが目に見えている。そこで第一弾のキャベツを試験的に植えてみる事200本。お日様の勢いが少し和らぐ夕刻より定植し、根元にはたっぷりの水分補給、夜に徘徊を繰り返すエンマコオロギから苗を守るためネットを張って完成。その翌日、強力な光を放つお日様が東の空から上がってきた。「さあ、どうなるか」と祈る思いであるが、苗床で過保護に育てられた小苗の葉は時間と共にしおれてゆく。毎日水を与えるが、暑さに打ちのめされ約半数のキャベツ苗は枯れてしまった。それにどこから侵入したのかコオロギの食害も手伝っているようだ。この結果を踏まえ、定植を一時中止し、じっと耐える事となった。このままでは肥料切れを起こしてしまう苗を、128穴のトレイからポットに上げて様子を見ることにした。有機JASの培土に当園の堆肥と土を混ぜて石灰で少し中和し、白い根がびっしり巻いた苗を一本一本ポットに植え替える。4~5日も経てば新しい土の養分を吸った葉の色は濃い緑を取り戻し、育ってゆく。

夏の終わりを告げ鳴き始めるツクツクボウシ、例年であれば夕方になると山々から聞こえてくる寂しげな鳴き声も今夏は耳にすることがなかった。お盆を越えると苗の定植が本番を迎える。天気予報に耳を傾け、同時にスマホでも天気を調べる。今まで幾度となく気象庁の天気予報に裏切られたため、何度も何度も色々な天気予報を確認しながらの作業となる。一苗一苗丁寧に畑に定植をする作業は進み、苗の頭だけが畝間に並ぶ。この時期は苗の作り直しが出来ないため余分な苗はなく、毎回が真剣勝負となる。「よし今日ならば」と8月下旬、苗場で育てたキャベツ、ブロッコリーの苗を畑に運び、事前に苗の大きさに合わせて開けておいた穴に苗を落とし込み、掌で優しく土で押さえる。それでも中には高温多湿による害を受けた苗もあり、かわいそうであるが淘汰する。これらはすべて温暖化のせいということにする。

第一弾の苗の定植をすべて終え、次に待っている作業は防虫ネット張り。支柱を立てて苗を畝ごとスッポリ包み込む。小さな苗はコオロギ、バッタ、オンブバッタの格好の餌食となり、今まで幾度となく一晩で見るも無残な畑となってしまったという経験をしてきた。既に近くの草むらではご馳走が来たとばかりにコオロギの目が光る。そうさせてはなるものか、と苗の根元に水分をたっぷり与えた後に一気にネットを頭からすっぽりと掛け外敵から苗を守る。ブロッコリーの苗は成長と共に背が高くなることを見越し、50mで2条植えの際に少々中央寄りに移植をする。また同じようにネットを掛け、その裾に鍬で土を寄せ、地面スレスレの所からの害虫の侵入を防ぐ。この時期の鍬での土寄せは厳しい作業となり、滴り落ちる汗と大きな息遣いに「コオロギさえいなければ…」と愚痴の一言も二言も言いたくなる。

「明日は小雨、所により強いにわか雨」との予報に思わず口元が緩む。「雨が欲しい、何が何でも雨が…」と天に祈りを。翌日、和泉山脈には雨雲がかかり、雨の流れが目に見える。片や南の大峰にも雨雲、そして煙るように降る雨が山々を包み込む。この雨で畑の作物はさぞ喜ぶであろう。ところが、「夕立は馬の背を分ける」とはよく言ったもので、南北の山間部は強い雨、しかし当園の上空には厚い雲は湧き上がらず空振りとなってしまった。馬どころか豚の背も分けられてしまった8月下旬であった。カラカラの日々はまだまだ続く。普段はたっぷりと流れる谷水も用水路にはほとんど流れ込まず、水が大好きな里芋は強い日射しに葉が焼け、土中の水分ももはや枯渇しつつある。7月に多くの人を苦しめたあの雨雲は何処へ。何とかして冬の食卓を飾る地味な里芋を守らなければ、とチョロチョロ流れる水路の水を引き込もうとしても、水の勢いがなければ畑に引き込むこともできない。「天道人を殺さず」という言葉があるが、天道を無視し続け、狂った社会で快楽におぼれた人類はもはや天道にも見放されてしまったのであろうか。

9月上旬、ほうれん草を畑に播種をする。事前に強酸性の当園の土には堆肥と石灰を入れ細かく耕運、頼もしい相方の種まきゴンベイの力を借り、一気に柔らかいフカフカの土に種を播く。4~5日で発芽が揃い、色濃いほうれん草の赤ちゃんは高温気味の中で何とか生育していく。ようやく発芽した苗を日々照り付ける太陽から守る最終手段として日よけネットを掛ける。2m幅で50mの長さを地上から1メートル程の位置に張ることにより、お日様の光を和らげ芽を守る。特に高温の中、無理に播種をしたほうれん草はこの日よけがなければ発芽は無理で、日よけを張っても発芽率は低くなる。2日に一度ホースを引いて水を与え、防虫ネットの上に張った日よけネットに守られ、何とか第2弾播種のほうれん草も芽を切った。日よけネットは外し、柔らかい朝日を当て、日差しが強くなる11時前にはネットを広げ、日が傾く4時頃にはまた外す、ということを繰り返して調節してゆく。

9月中旬、ほうれん草の日よけネットを鼻歌まじりでテンポよく広げていく。と、隣のブロッコリーの畝間に何やら奇妙な動きをする生物を発見。目を凝らしてみると、この暑い中、防虫ネットを乗り越えようとするがネットの目が細かく滑り落ちてしまうヘビの姿。近くへ寄ってみると、何と珍しや毒ヘビの「マムシ」である。体全体に銭形模様、かなり太く立派な形のマムシである。一旦目にしてしまえば獲らないわけにはいかない。マムシの頭を抑えるため、ちょうど近くにあった鍬に手を伸ばす。マムシは敵に対して毒の牙を剝いて攻撃を繰り返す。チャンスを見計らいようやくマムシの頭を鍬の柄で押さえることが出来た。そっと手を伸ばし首筋を2本の指で掴み、「どうや!」とばかりに持ち上げる。まるでガキ大将そのままである。何を間違えたのか、湿地を好み、乾燥を嫌うはずのマムシが畑の中をお散歩。御用となったマムシは当園の一番隅にある深い谷底へと放した。この夏最大の私の武勇伝である。

キャベツに続きブロッコリーを定植し、砂漠のような畑には緑が増え賑やかな畑となってゆく。しかし、8月12日に蒔いた極早生の白菜、10月下旬の収穫を目指して汗を滝のように流した努力もむなしく、いつまでも続く残暑に息も絶え絶えとなっている。この先も大きな期待はできない。早生の白菜栽培はこれから毎年続くであろう猛暑の中では不可能になる。何か良い方法はないかと軽い頭で思案を重ねながら来年初秋までには答えを出したい。

毎年お盆を過ぎるとやって来る招かれざる客のアブ、蚊、ブヨは三大農の敵である。畑での作業中、夕方になり少し気温が下がって来るとうるさく耕人の周りを飛び回り、隙を見ては私の清い血を吸う。油断をしていると刺され、全身に電気が走る。アッと思った時には時すでに遅し、痒みはそのまま自宅まで持ち帰り、食後に自室で届かない背中の痒みに七転八倒。そこで登場するまごの手、竹細工のこの愛に溢れるゴッドハンドは私を痒みから解放してくれる。これがプラスチック製なら愛は消え、只々痒みからの脱出用品となる。

夕刻、アオマツムシやコオロギの羽音に送られ農場を後にして帰途に着く。一日の汚れをシャワーで流し、至福の時間へと突入する。前回の通信では我が家の夏のサラダを紹介したが、今回は夏野菜のグラタンを。大きなグラタン皿にかぼちゃやピーマンなどの夏野菜やじゃが芋をたっぷり盛り、塩、コショウとオリーブオイル、バターをふりかけチーズをのせてオーブンへ。家人に減塩どころか増塩をリクエスト、黒コショウも増量、カロリーなど気にせず大自然からの贈り物をお腹いっぱい味わう。(※注 カボチャは苦手とし、私の分は外してもらう)それにこれでもかという量のサラダ、家人作の元気の源の一日4粒の黒ニンニクも忘れず口に運ぶ。もちろんそこには泡の出る神の水が入ったマグカップも鎮座する。

至福の時間を楽しみ、秋の夜長音楽に耳を傾ける。秋の夜はラフマニノフを好み、少々近所迷惑ではあるが耳にしびれる音での時間を過ごす。ジャズも秋にはピッタリはまる。45才を迎えたこのステレオ、もう少しの時間、農で疲れた身体を癒して下さいと願う。

柔らかい光を放ちながらまん丸いお月様が東の空から顔を出す。今夜は中秋の名月、作業を終え帰宅の前にススキの穂を摘み取る。家では家人が月見団子を作り、持ち帰ったススキを飾りお供えをする。

月を見ながらどこかで読んだ話を思い出す。夏目漱石に「I love you」をどう訳するかと尋ねたところ「月が綺麗ですね」という答えが返ってきたという。本当の話であるかどうかは定かではないが、美しい話である。その話を家人に話して聞かせるが、やっぱり私には美しい月や光に輝くススキの穂よりも団子の方が似合っているらしい。

耕人肥ゆる秋を迎えた農場より