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慈光通信 第184号

2013.4.1

病気のないすこやかな生活 ― 医・食・住 ― 7

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

【この原稿は、1982年(昭和57年)3月6日 熊本県立図書館ホールでの講演録です。】

 

 

正しい食生活
日本人の食生活のパターンを考える
ミネラル不足の日本の土地

 

 

さて、食事パターンについて、これはもう竹熊宣孝医師(菊池養生園勤務)がいつも叫んでおられることですから繰り返しになると思うのですが、簡単に申し上げますと、明治以来、日本人は欧米の栄養学をそのまま猿真似的にう呑みにしたために、今や大変な欠乏状態になって来ているわけです。食事のパターン、皆様がお召しあがりになっているものの食事、そのもの自身の組み合わせが根本的に間違っているという事を、私は臨床的にもはっきり確かめております。近藤正二先生は、一生の仕事として全国の長寿村、短命村を回って症状を調べられて、その事を叫んでおられます。
どういう事かと申しますと、日本人には日本人の食べ方がある。なぜかと言えば土地が、気候が、風土が、欧米とは違います。例えば欧米の土地はだいたい水成岩性のアルカリ土壌が多いんです。中国大陸でもそうです。従ってカルシウムとか鉄とかいうミネラル(鉱物質)が非常に豊富なのです。だから井戸水をそのまま飲めないところが多いのです。外国においでになった方はお気付きかと思いますが、フランスでは飲み水を売っています。アメリカでも井戸水を飲めない所が多いのです。これに対して日本の土地は、火成岩性の酸性の土壌です。井戸水がそのまま美味しく飲める。いわゆるミネラルが少ないんです。ヨーロッパに行ったら皆さまご存知かと思いますが、電線がないんです。全部地下を通っていて、これは雨が少なくて土のなかを通しても持つからです。日本では雨が多くて持たないわけです。
そして一方は、欧米人は大体牧畜民族です。われわれは農耕民族です。欧米人はもともと肉を食べます。非常に
雨が少なく農産物が生えにくいため、牧畜が盛んになるわけです。肉を食べる習慣のある民族と、雨が多くてよく農作物が出来て、農耕をやってきたわれわれ民族、土地もこのように違うわけですから、おのずから食生活が変わらなければならないという事は当然です。また例えば、我々の健康法に日光浴という言葉はありません。なぜなら日本では太陽の光が豊富でありますから、日光浴という1項目を健康法に入れなくても自然に入ってくるわけです。ところが北欧のノルウェ―とかスウェーデンへ行けば日光浴という項目が必ず健康法の中に入ってくるわけです。太陽の照射が少なくて、必ず考えなければいけないからです。欧米の水成岩地帯では非常にミネラルが豊富ですから、ミネラルという事を考慮しなくてもいいわけです。ところがわれわれが住んでいるこの火成岩地帯の酸性土壌ではミネラルとビタミンという事を常に考えなければいけないわけです。それでも、なおかつ欧米人は肉食をするけれども、ミネラルを失わないような食事体制が随分出来ているわけでいつも感心するのです。
例えば黒パンを食べます。動物を食べる時でも何もかもみな食べてしまう習慣があります。果物を食べても皮から種からみな食べてしまいます。桃のようなひげの多いものでも、私の友人がいっていましたが、皮ごとかじるんですね。電車の中である婦人が桃を食べていたのでどうするかと見ていたら、皮をみな食べているんですって。ひげだらけの桃をね。小さい桃ですけれど最後に種が残った。その種の周りに肉が付いているのをしゃぶったということです。あの種どうするんだろうと思ってみていたら飲んでしまったそうです。ただしね、内地の桃のような大きいのじゃないそうです。私の所へ来られたアメリカ人の子どもに家で作ったブドウを出してあげると喜んで食べかかったけど、早いのなんの。いっぺんに食べてしまったんですよ。何と早く食べるのだと思ってみてみると、皮も種も全部食べてしまうんです。きれいに上手に皮や種を出すのはわれわれだけらしいです。そういう習慣をつけてともかくミネラルを失わないように生活習慣が出来ているようです。生野菜を食べ、そして牛乳を飲み、ニワトリでも骨から全部食べてしまう習慣です。ところがわれわれは常にミネラル欠乏の状態にあるわけです。

 

 

青菜を多く

 

 

これに対して我々の先祖はどの様にしたか。まず、農耕民族であって穀物を食べるについては野菜をたくさん食べた。副菜の事をお菜といいますね。菜っぱの事です。この青い菜っ葉をよく食べる。これがもう米食の民族にとっては極めて大切なことなんです。これは理屈ではなく事実です。
アメリカの有名なマッカラム研究所のマッカラム博士が戦前ですけれども20年間東洋の米食民族の健康と食事を調査した結論として、「米を主食にする東洋民族の最も大切な栄養物はグリーンの野菜である。」こういう結論を出しております。確かにその通りです。有名な岡山県の倉敷中央病院長でいらっしゃった遠藤仁郎先生が青汁療法というのをお勧め下さっていますが、この青い葉っぱをたくさん食べるという事が、先生の大事なご主張なんです。ともかく菜っ葉をたくさん食べる。これはミネラル、ビタミン、その他いろんな栄養物の補給に大事な事です。
(以下、次号に続く)

 

 

PM2.5をご存じですか

 

今年になって、「去年までは花粉症ではなかったはずなのに、今年は何だか咳が出たり、鼻水やくしゃみなど、花粉症のような症状が急に出てきて・・・」と話される方が多くなっています。今年は例年に比べ、1.5倍ほどの花粉が飛んでいるようです。去年は少なかったので、花粉症が楽になったと喜んでいた方も、今年はまた、目がクシュクシュ、鼻がズルズルと、つらい春を迎えています。でも、この症状は、必ずしも花粉症によるものだけではありません。そう、もうひとつの原因は、黄砂です。花粉症のなかった方でも、もはや対岸の火事ではありません。
今、中国では砂漠化、大気汚染が深刻です。黄砂は、中国、モンゴルあたりの砂が強風で巻き上げられたもので、はるばる海を越えて日本にやってきます。砂漠化の進行により、黄砂の量は年々増えているといわれています。日本でも車を外に止めて置くと一晩で車体が汚れ、ワイパーをかけると黄色い汚れが流れ落ちます。雨が降った翌日は、雨が乾いた跡が黄色くなっています。外を歩くとなんとなく顔がザラザラしたり、遠くの景色がかすんで見えたりと、年々状況は悪化しています。さらに問題なのは、黄砂は中国上空を通るとき、大気汚染による有害物質を自身の体にくっつけて飛んで来るということです。この1つが今年になって騒がれている『PM2.5』です。
PM2.5とは一体何者で、私たちにどのような影響をもたらす物質なのでしょうか。
PM2.5とは、粒子状物質『Particulate Matter』の頭文字をとった言葉で、大気中に浮遊している直径2.5μm(1μm(マイクロメートル)=1mmの1000分の1)以下の粒子をあらわしています。2.5μmという大きさは、比較してみると、例えば髪の毛の太さは80μm、花粉は30μm、日本まで飛んでくる黄砂は4μm、そして今まで浮遊粒子状物質(空気中に浮遊する、大気汚染、身体に悪影響を及ぼすと考えられる物質)として環境基準で定められていた大きさは10μm以下です。また、『PM2.5』とはこの粒子状物質の総称なので、1種類だけではなく、炭素、硝酸塩、硫酸塩、金属などを主な成分とする物質の混合物で、色々な種類があります。物の燃焼や化学反応によって発生し、日本では排出規制があって、その数値は減少傾向にありますが、急激な工業化の進む中国では、規制が経済発展にブレーキをかけてしまうのではないかという懸念から、未だに規制の基準がはっきり決められておらず、排出量は増える一方です。
花粉や黄砂程の大きさになると、粒子は鼻や喉の粘膜にくっつき、それがアレルギー症状を引き起こすことになります。この症状は非常につらいものの、通常はせん毛運動という、体の自浄システムによって、時間がたつと次第に体外に出たり、胃液で分解され、なくなっていきます。 しかし、問題なのは、肺に入り込むことの出来るギリギリの大きさである2.5μm未満の粒子『PM2.5』は、肺手前の検問をパスし、肺につながる器官肺の奥深くにまで入り込んでしまうことです。これが原因となり、肺の中で炎症が起こって喘息や気管支炎などの呼吸器系疾患や循環器系疾患などのリスクが上昇します。特に呼吸器系や循環器系疾患の病気を持つ人、お年寄りや子供などは影響を受けやすいと考えられるので注意が必要です。

 

 

対策として

 

 

・ 睡眠中は、喉から肺が乾燥し、吸い込んだ異物を排出しにくいため、布団・シーツ等の寝具や洗濯物は黄砂が飛んでいる時には外に出さずに、室温を下げないように除湿器を活用して室内干しにしましょう。
・ 黄砂は室内にも入り込んでいるので、黄砂が飛んでいない時でも、掃除や片付けの時には黄砂を吸いこまないようにすることが必要です。黄砂は水に溶けやすいので、水で洗い流 したり、雑巾で水拭きしたりして下さい。黄砂を掃くと巻き上げて吸うことになるので避けて下さい。
・ 黄砂がひどい日の外出時にはマスクを着用しましょう。花粉症用の従来のマスクでは、マスクの全面から黄砂を吸いこんでしまうため、ウイルス用のマスクがおすすめです。マスクの表示がN95、N99、N100と書かれているものを選びましょう。
*N○とはPM2.5や、それより小さい粒子を○%除去できるかを表します。例えば、N95だと、約95%の粒子を除去できるということです。
・ 黄砂は目を乾燥させ、形がギザギザなので、目をこすり過ぎると角膜に傷が付きます。傷口からカビや細菌、ウイルスなどが侵入するとアレルギー性結膜炎になる事があります。目に違和感を感じた時には洗い流して下さい
気付かないうちに体内に入り込むPM2.5、新聞やテレビ、インターネットなどの情報もうまく利用し、自身で対策することが大切です。

 

 

 

農場便り 4月

 

春の香りが農場を包み込む。鬱蒼と茂る雑木林の中にも春は訪れ、うす暗い林の中、ヤブ椿の真っ赤な花が咲く。苔蒸した土には咲き終えた花が落ち、暗い藪の中ならではの美しい世界が醸し出される。地上には草花が今盛りと咲き誇り、目に飛び込んでくる色は天然の色明帳のようである。鳥は細く高い小枝に羽を休め、美しい声で歌を奏でる。昆虫は畑土の上を楽しむかのようにあわただしく動き回る。
春到来とともに農業も本格的なシーズンを迎えた。「今日出来る事は明日でもできる」と独りよがりでのんびり屋の私のお尻に火がつきだした。あれもこれもと一度に押し寄せてきた仕事の波にプチパニックを起こす。
キャベツとごぼうの小さな苗は約3ヶ月間、連夜マイナスまで気温が下がる農場で冬を越した。キャベツの苗は35?40?間隔で1畝2条に、柔らかい土に指で穴を開け、1株ずつ挿して手のひらで押さえてゆく。弱々しかった苗も厳しい寒さから解放され、優しく降り注ぐ春の陽に日、1日と大きく成長し、蒸し暑くなる6月から7月下旬にかけて収穫を行う。冷涼な気候を好むキャベツにとっては収穫前に息苦しい季節に遭遇する。他の畑では、ほうれん草や小松菜がビニールトンネルの中で可愛い芽を出し育つ。
野菜たちを播種、発芽する時同じくして、我がノイローゼの火種、雑草も芽を出す。憎き雑草めと、親の仇のように鍬で削り取るが、後から後へと芽を切り、こちらの畑で一戦交えている間にあちらの畑が落城寸前、慌てふためき次の畑へ馳せ参じ一戦を交える。しかしながら終には落城し、敵の勝鬨を見ることも幾度かである。それでも「敗けてはならぬ」と鍬を振り回す日々が秋まで続く。夏作の苗も準備万端、と言いたいところではあるが、そうもいかない。一時期に単作で大量生産を行う現代農業とは違い、多種目を年間を通して必要量だけの栽培を行う当会では、時期をずらし、年中播種を繰り返し、管理を行う。
直営農場は標高が高いため、厳冬の時期は作物が凍結してしまうため育てることができない。その中、先程紹介したキャベツとごぼうの幼苗だけが厳しい寒さの中で冬を越す。ごぼうは10月に播種し、本葉2、3枚で冬を迎える。その小さな葉も、12月末には全て地上から姿を消し、地下茎だけが凍りつく大地の奥深くへと根を伸ばし、その後冬眠に入る。しかし、難敵、雑草軍は「時来たり」と一斉に芽を吹く。作物の姿のない畑にかがみ、寒風に吹きさらされながら除草を行う。この作業が冬の間の最も凍える作業である。大晦日から新春、そして春本番を迎え、3月中旬淡い緑色の新芽が地中から芽を出す。早春から鍬と機械による除草、そして混み合ったところの間引きを行う。ゴボウは生命力の強い作物であり、幼苗の時期さえ小まめに除草を行えば後はお天道様に育てられ、香りの良い美味しいごぼうを収穫することができる。
梅雨明け7月中旬、ダンプの荷台にはユンボが積まれ、農場への坂道をエンジン音高く登っていく。日差しは夏の日差しに変わり猛暑となる。同時に待ちに待った夏ごぼうの収穫が始まる。あらかじめごぼうの筋に沿って1メートルの溝を掘り、必要量をその都度畑から堀り上げる。このごぼうが秋蒔き夏採りごぼうで、3月上旬に蒔き、ひと冬収穫を行うのが春蒔き冬採りごぼうとなる。この春に蒔いた種は、ちょうど今殻を破り双葉が一列に並ぶ。ごぼうの赤ちゃんはこれから春の陽を小さな葉に浴びて、日々育っていく。
ごぼうの生産地は火山灰や砂系の多い土地で栽培されることが多く、当園のような粘土質の土地ではあまり栽培されないのが現状である。一般市場では形が重視されるため、砂地や火山灰でスラリとした美人ごぼうが栽培されるが、当園の粘土質の土地ではズングリデコボコで少々形が悪くなる。しかし、栄養価、香味などは粘土質の栽培が上質とされる。この強靭な作物にも弱点が有り、酸性土壌を嫌うため栽培の際には土を中和することが大切である。
他にも多種の作物を生産し、日々管理に追われる。農作業の中、「フーッ」と息をつき顔を上げる。咲き誇る山桜、淡い色の美しい新緑が目に入る。春風に運ばれ、高所の山桜の花びらが舞い降りてくる。気温も上がり額に汗がにじむ。息も荒くなり肩で息をする。
夕方6時を過ぎてもまだ日は明るく、作業は続く。夕日は傾きまもなく日没となる。グリニッジ天文台よりも正確な私の腹時計は、作業の終わりを「グー」と告げる。鍬を立て大空を仰ぐと、夕日に染まった風景が大自然のキャンバスに美しく映る。時を忘れ見入る。
いつしか周りでさえずる小鳥の声も消え去った。静寂な時間が訪れ、頭の中ではドヴォルザーク 交響曲第9番第2楽章の美しいメロディが流れる。

 

 

ゴボウ掘ルザークザクの農場より