慈光通信 第219号
2019.2.1
日本農業の危機に思う 5
前理事長・医師 梁瀬義亮
【この原稿は、1978年6月毎日新聞社発行の「農業と経済」に掲載されたものです。】
農産物の評価
農作物は人間の生命と幸福のためのもので、栄養と味と香りと日持ちが最も大切な事柄で、形や色調はさほど重要ではない。しかるに現在の市場では形や色調のみが農作物評価の基準になって、たいへん農民を苦しめている。
聞くところによると、こんなバカげた等級制をしているのは、世界中で日本だけのようである。この誤りを是正する努力を政府や農協は一日も早く始めるべきであり、農民自身も健康と幸福のため、流通機構の改革と消費者の啓もうに努力すべきである。
私たちは米および野菜について19年間完全に無農薬有機農法を実践し成功してきた。またその販売については、財団法人・慈光会健康食品販売所を通じて、正しく農作物の意義を理解する人々に買ってもらって、流通面でもうまく行っている。
上述のように、人間にとって最も有益な自然の農作物は5%ぐらいの虫の食ったものである。
したがって、少しの虫食いも許さない現在の市場の誤った評価を相手にしていては「生命の農法」は成り立たない。正しい流通機構が成立するまで、当分は新しい流通機構を作って、理解ある消費者と直結しなければならない。
生命の農法と放置農法
生命の農法(無農薬有機農業)だって、一つの自然破壊ではないかといった人があるが、これについて一言いいたい。何も原始林ばかりが自然ではない。大自然の中で、あらゆる動物が、それぞれに適した生活環境を作る努力をする。これは自然の営みの一つである。
人間も自然の一員であって、人間に適した環境を作る努力をすることは許されているのだ。その努力が自然の法則に忠実に従って行われ、再生のサイクルの中にあるかぎり、それは自然破壊ではない。再生不可能な工業的自然破壊と、大自然の環境の中に再生補給の行われる生命の農法(生態学的農法)を同一に論ずることは誤りである。
また最近すべてを自然のままに放置するのが自然農法であるかのような説が広がっているが、これも正しくない。複雑極まる有機性物質の合成、これはとても人間のできるワザではないが、それを大自然は見事にやってのけてくれる。しかし、この大作業の万一を人間がお手伝いして、人間に適合した農作物をいただくのが農作業である。
農作業は、実はつくる作業ではなくて、いただく作法である。耕耘好気性完熟堆肥の施肥、適当な除草、草刈り、給水等々……これらの作業は絶対に必要である。いな、これこそ農民の生きている証であり、また私の経験によれば、この労働によって心身が強化され、浄化されるのであって、この労働がなくなると心身が堕落荒廃するのである。ただし化肥、農薬の近代農法の農作業は心身の破壊であることは上述の通りである。
有機無農薬農法のすすめ
古来、農は国の大体なりと言われる。これは深い意味を持っている。農意をおろそかにして栄えた国は、かつてないと史家は教えている。
この鉄則を無視して農業の犠牲のもとに工業を発展せしめようとした日本の政策を、中国の毛沢東氏は暴挙と評した。そして現在、この誤った政策が当然の結果としての破綻に近づいたとき、さらにまた農を圧迫して、それを糊塗しようとしている(減反政策等……)まことに憂うべきことである。
一国の基礎は国民の心身の健康にある。そのためには健全な自然と、健康な農業が絶対に必要である。農業は単なる企業であってはならない。農政は、この点を再認識すべきである。その意味で農民の心身や、大自然の健康を破壊し、毒食と栄養欠乏食を生む近代農法は速やかに廃止されるべきで、無農薬有機農業こそ日本農業の進むべき唯一の道である。
農業は国家の事業として正しい意味で十分に保護されなければならない。現在なされているような施設園芸に対する補助のごときは、決して正しい農業の保護ではない。
公害を出して石油や電力を浪費し、農民の健康を脅かし、そして国民の健康に役立たない季節外れの欠乏食、毒食を作る施設園芸に何の国家的、民族的意味があろうか。いまや未曽有の危機に瀕した日本では、無農薬有機農法と複合経営による農村の正しい復興こそ焦眉の急である。
【完】
進む海洋汚染
今、海の生物が危険にさらされています。地球の環境汚染は年々ひどくなり、クラゲを餌にしている魚やウミガメが、海中に漂っているビニール袋やプラスチック片をクラゲと間違えて食べてしまったり、捨てられた釣り糸に足が絡まって死んでしまった鳥などが見つかっています。ウミガメは、プラスチックごみを誤飲すると腸閉塞で死に至る場合があります。また、プラスチックの破片が消化されずに胃でとどまってしまうため、満腹であると勘違いしてしまい、食事をとらずに餓死してしまうこともあります。同様に、絶滅危惧種を含む700種もの生物が傷つけられたり死んだりしていますが、このうちの92%が海洋プラスチックゴミによるものです。海洋汚染は地球規模で広がり、北極や南極でもマイクロプラスチックが観測されたとの報告もあります。海に漂う微細なマイクロプラスチックを体内に取り込んだ海の生物は世界各地の広い範囲で見つかり、日本国内でも深刻な問題となっています。
マイクロプラスチックとは、微小なプラスチック粒子の事で、大きさが5mm以下のものと定義されています。大きく分けると、歯磨き粉などに混ぜる小さなプラスチック粒子(マイクロビーズ)などの、製造された時点ですでに5mm下のものと、プラスチック製品の劣化によって小さくバラバラになったものがあります。マイクロビーズは排水溝を流れ、下水処理場でろ過しきれずに一部が海に放出されます。今現在、海には年間800万トンものプラスチックごみが流れ込み、これをジャンボジェット機の機体の重さに換算すると、1年間におよそ5万機分もの重さのごみを海に捨てていることになるというのです。海にはすでに1億5000万トンものプラスチックごみがあり、2050年にはそれが海にいる魚と同じ量にまで増えると予測されています。これはもう私たちの想像をはるかに超える量です。プラスチックは、熱が加えられたり日光にあたるともろく砕けやすくなります。流木や海藻なら、微生物の働きでやがては分解され二酸化炭素や水などに戻ってきますが、プラスチックはいくら小さくなっても分解してなくなることはありません。プラスチック製のレジ袋が完全に自然分解されるまでには1000年以上かかるとの研究もあるのです。ゴミは適切に処理しなければ、行きつくところは海です。しかも小さなプラスチックは、海の生き物が餌と間違えて食べてしまうことがあります。プラスチックを摂取している割合は、ウミガメで52%、海鳥で90%に達しているとも推測されています。
人体への影響はどうでしょうか。魚介類がプラスチック由来の添加物を体に取り込んだ場合、それらは動物の脂肪組織に移行、蓄積していきます。たとえ魚介類の体の中のマイクロプラスチックが排出されて残っていなくても、プラスチック由来の化学物質が脂肪の中に溶け込んでいる可能性もあります。それを私たちが食べると人体でさらに濃縮される可能性もあります。まだどの程度なのか、人体や生態系への影響は解明されてはいませんが、日本の沿岸や近海各地で採集されたマイクロプラスチックにも有害物質が含まれており、それらが海の生態系に広く入り込み、食を通じて人体にも取り込まれている可能性があります。
一度海に入ってしまったマイクロプラスチックの回収は不可能と考えると、まずはプラスチックゴミがこれ以上海に入ることを徹底的に阻止しなければなりません。国連は、2022年までに使い捨てプラスチックを含む海洋ごみの主な発生源を排除する国際キャンペーンに乗り出しました。30か国以上が参加しており、国家レベルでの取り組みを進めると公言しています。しかし、日本での取り組みはまだまだ進んでいません。
まずは使い捨てプラスチックを減らすことから始めなければなりません。それには、レジ袋を断りエコバックで、お出かけの時はマイボトルを持ち歩く、プラスチックストローを使わないなど。個人レベルでできることは小さなことですが、みんながそれを実践すれば大きな力になります。これ以上大切な海の汚染が進むことのないよう、自分ができることを実践しましょう。
農場便り 2月
夜のしじまに包まれた街に梵鐘の美しい音が深く響きわたる。遠くに聞こえる鐘の音が、過ぎ去る一年を想う心の寂しさに拍車をかける。犬の遠吠えが去る年に別れを告げ、イノシシが闇夜の彼方から新年を背負い猛進してきた。
31日夕刻、掃除が済み掃き清められた庭に固くなったご飯と米ぬか、木の枝にはみかんを、日々我が家の庭で遊ぶ小鳥たちへの元旦の御馳走に置いておく。山鳩のつがいは一年を通じ、メジロは12月山茶花の花が咲く頃に、他の小鳥たちも美しい姿で四季折々に家族の目を楽しませてくれる。翌日に食べ残された餌の量を見るのが楽しみの一つであり、あれこれと新年早々迷惑そうな家族への報告も新しい年の初日の楽しみである。
元旦、大みそかの夜更かしがたたり、本年もお日様は頭上高く上った。相変わらずの初日からのだらしなさに本年も人間としての成長は期待できない……。ストーブの薪を運びがてら、鳥たちは美味しく餌を食べただろうか、と庭に目をやるとすべてがそのままの状態で目に映る。どうしたことかと部屋に戻り、あれこれ新年の鳥の行動を推測し、いつものように最大の尾ひれをつけて家人に話をする。
楽しい家族の宴、当会の野菜が祝いの席に美しく色を添える。作業をしているときは時間の経つのが遅く感じるが、ボーッとした時間はあっという間に過ぎ去ってゆく。作業が始まる日の前夜、明日から一年の始まりと気合いを入れ、ごろ寝から起き上がり全身に力を入れたとたんに腰が「グキッ」。日々の労働に耐える腰も「なまけ腰」に変わっていた。農業に携わることウン十年、身体は牛馬のごとく農業用へと変わっており、こたつの番の生活には耐えられないようだと今更ながら気付かされたお正月休みの最終日であった。
休み明けは、農場の見回りから始まった。寒空の下、不織布を頭からすっぽり被った白菜が寒さに敗けることなく殺風景な畑で出番を待つ。今シーズンの白菜は11月中旬より3月上旬までの早生種から晩生種の播種を行った。早生種は大きく育ったが、秋の長雨などの悪環境がたたり害虫が発生しほぼ全滅、中生、晩生種はこれぞ白菜!とばかりに育ち、見事に大きく結球した。栽培は、播種用の土まで有機専用のものを用い、トレイでの育苗後は完熟堆肥たっぷりの畑へ定植をする。気温の高い時期のみ定植と同時にネットを被せ、害虫から小さな苗を守る。中生は年内にずっしりとした球に仕上げ、晩生は七分結球した後、大寒の中じわじわと結球を進める。作物の中でも白菜栽培は栽培初期に農薬を散布するなどの減農薬栽培はあるが、現在完全無農薬の白菜の栽培農家はほぼ皆無で、無農薬と謳いながらいかがわしいものが横行しているのが現状である。
白菜は栄養価が低いと言われているがそれは間違いで、特出した栄養はないが驚くほどの種類の栄養がバランスよく含まれている。白菜は中国三千年の歴史の中、大根、豆腐、そして白菜は養生三宝と言われ薬膳料理にも使われてきた野菜である。ビタミンA・E・K・B1・B2・C、ナトリウム、マグネシウム、リン、鉄、亜鉛、カルシウム等々、他にも色々な栄養価が含まれている。100gあたり14kcalと低カロリーで血糖値を抑えたい人にはうってつけで、カリウムを多く含み体のむくみや肌荒れの改善にも効果がある。ビタミンCはリンゴの5倍も含まれ、アンチエイジング、コラーゲンの生成を助長する。また免疫力をアップしウイルスから体を守り、ガンの予防の効果もある。イソチオシアネートは悪しき細胞を死滅させるともいわれている。ドヤサ!とばかりに含まれる栄養素と食味の良さ、まだまだたくさん畑で眠る白菜を色々な料理でお楽しみいただきたい。
白菜と時期を同じくして畑に眠る作物に山芋がある。春5月、種芋を定植。水分を絶やすことなく、夏の暑さにも負けずツルを伸ばし、土中に養分を貯めていく。秋の訪れと共に青々としていたツルや葉は色が褪せ、黄色から茶色へと姿を変えてゆき、冬になると地上部は枯れてしまう。12月より掘り始める計画を立てたが、冬どり用に定植したキャベツ畑にイタリアンライグラスや雑草が所狭しと芽を出し、放ってはおけない事態となったため除草を優先し、手と除草鍬で削り取っていく。株間に生えたイタリアンライグラスは鬼のような強靭な生命力を持ち、抜けども削れどもイタリアン魂で大地にしがみつく。山芋掘りは他の作業が優先し、後へ後へと回されてしまったが、ようやく年が変わった1月より掘りはじめ、出荷の運びとなった。簡単に山芋を紹介させていただく。
山芋に含まれる栄養価は、ビタミンE・K・B1・B2など10種類以上が含まれ、無機質はナトリウムをはじめ多くのミネラルがバランスよく含まれる。ビタミンB群は肝臓や脾臓の働きを良くし、老廃物の排出を促進し体を元気にする。胃腸が疲れ気味の時は麦飯とろろがおすすめ。山芋に含まれるジオスゲニンは大腸がんを抑制し、認知症を改善するといわれている。多くの力を持った山芋を是非ご賞味いただきたい。
「遠き山に日は落ちて」などと口ずさむ。12月29日恒例の作業は倉庫の清掃である。一年間貯めに貯めたゴミ、トラクターが持ち込んだ畑の土などを一日をかけて美しくする。他にも不用になった物や乱雑に置かれている農作業の道具など、気が遠くなるような作業が待っている。やり始めるまでの重い空気はやり始めると勢いが付き、一日で倉庫の中や周辺が美しく片付けられた。最後の最後にトラクター2台の洗車、圧力水でこびりついた泥をホースの角度を変え落としてゆき、水が滴るトラクターを倉庫に入れThe endとなる。
前理事長の記念碑が自身の愛した農場の最高地に建てられている。最終日2日前の12月27日、午前中は作物の収穫、午後からは記念碑の掃除と以前から計画していたが、そこへ行くには地道の農道を上って行かなければならない。その大切な道のいたる所を山の主であるイノシシが掘り返し、中には完全に崩してしまい道の姿が消えてしまった所もある。トラクターや人力でまず道を直し、軽トラックが行き来出来るよう整え、やっとの思いで頂上までたどり着く。これをするのに約半日を費やす。周りを雑木に囲まれた地にはたくさんの落ち葉が積り、雑草が伸び、一年間の手抜きがうかがわれる。草を刈り、落ち葉を集めて山積みにし、トラクターで一気に雑木山に押し込む。少々荒っぽい私の業で100?位の地を美しく清める。
最後に手を合わせ1年の報告をして一礼。五條から金剛連山にかけてを一望できる地に空高くそびえる記念碑には故人の愛した「碧空慈光」という文字が彫られている。静かな時間が流れる農場より多くの人々に慈悲の光をいつまでも照らしてくれることを願う。
一日を終え、朝、家人が持たせてくれたポットの中の温かいコーヒーを口に運びもの思いにふける。星のきらめきが目に映る頃、山を下りる。一日の勤めを終え、だらしのない駄目オヤジに変身する。
30日にはお鏡作り、と言っても機械が真っ白な持ち肌に搗き上げてくれる。私は只々椅子に腰を掛けてじっと見つめるだけで、家人が搗き上がった餅を手早く丸め、ほっこりした時間が過ぎてゆく。ボーッとする私に家人の口が開く。大掃除の催促、否、命令が下る。まずは外周りから、庭の落ち葉掻きに始まり、門や木戸などの雑巾がけ。洗車は見てみぬふりを決め込み、のんびりと掃除を進めていると一日は足早に過ぎていく。いよいよ本年も残すところあと一日、前日に残した作業の続きを行う。気温は高く、井戸水はお湯のように温かく、外回りにはうってつけの日である。平素手の回らない箇所を中心に作業を進める。胸ポケットのラジオから流れてくるこの一年の様々な出来事に思いを馳せる。あまりにも暗い話題が多いため、明るく心温まる話題がかき消されてしまう。
そうしている間も家人と娘はおせち作りに余念がない。うす暗くなった空を見上げ屋内の掃除へと場所を変える。室内は暖かくストーブの上のケトルから湯気が立ち上る。勢いよく燃える火を見つめながら駄犬の頭を撫でる。我が家の恒例の行事がまもなく始まる。フルオーケストラ、フルコーラスの面々がテレビの画面に映し出され、ベートーベン第九交響曲の演奏が始まる。幼い頃、父の膝の上で訳もわからず聞いていたことが思い出される。あれから何十年もの月日が流れたが、毎年一度も欠かすことなく我が家の一年を締めくくる大切な行事となっている。第九の四楽章が一年の終わりを告げ、人類の平和を歌い上げる。
「オ フロイデ!」すべてのものは神の前では平等であると。バリトンの歌声が室内に響き渡る。時同じくしてズルズルという不協和音が室内に響き渡る。そこには年越しそばをすすり込む私の姿。静かに年は暮れてゆく。
土を耕し土に生きる耕人より