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慈光通信 第174号

2011.8.1

すべての患者に聞いた食生活の傾向から  4

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

【この原稿は日本有機農業研究会主催第四回全国有機農業大会における梁瀬義亮前理事長の講演録です。】

 

 

幅広く生きること

 

 

昭和27年にこの調査が終わったのでございますが、それから後もずっと私は現在に至るまでお出で下さる患者さんには全部その方の食事とか、その他のことを調査しております。例えば、非常に運動が大事だということ、これによって食事に欠点があっても矯正されること、皮膚の鍛錬が大事なこと、呼吸法の大事なこと、あるいは精神的な要素がいかに大きいかということでございます。例えば、健康法をやっておられる方が一つの理論を信じて、それに少しでも違うと非常に不安を感じておられる方が多いんですが、それは却って良くありません。傾向としてそれをやったらいいんであって、人間は広い範囲で生きられるものであって、一線に生きるのではないんだということを強調するんです。これは私のたくさんの経験の中から出ていることなのです。
一つの健康法がある。それを少しでもはずれたら病気になると思って不安を感じる。それによって却って健康を損なうのでございます。青汁療法は結構だと思います。しかし、ちょっとでも青汁を離すと不安で生きられないような人、こういう人は精神的な面から病気が起こりやすい。玄米食をやるのは結構です。しかし、それで玄米が抜けたらたまらない、むずむずしてくる、この様な方は、それでまた病気が起きてきて青黒い顔をして痩せてしまうんですね。
ですからどうぞこういうパターンを申しあげましても、毎食ビタミンだのミネラルだのということをお考えになって食事をおあがりにならずに、大まかなところ、こういう傾向がいいんだということにしていただきたい。この会場の中に、たくさん健康法を行じておられる方も多いと思いますが、それも傾向として扱うべきであって、これがなかったら駄目だと考えるようになると却ってそれが仇になる場合が多い。人間は広い範囲に生きられる、これも私の臨床経験から申しあげられます。

 

 

恐ろしい農薬の害

 

 

患者の食事に一回一回注意するということで出てきた副産物は、森永の砒素ミルクを早く発見させていただくことができたことです。私の町の子どもさん達にかなりその害を防がせていただくことが出来ました。大人ばかりでなく子どもにも全部食べ物を注意しておりました。
先程松村先生が仰せくださいましたように、昭和31年の末頃からわけのわからない患者、肝炎だかノイローゼだか、原因不明の患者が出てまいりました。
最初、肝炎だと私の地方では言われて、流行性肝炎が流行っていると言われました。しかし、じっと見ておりますと、どうもおかしい。森永の砒素ミルクの患者とよく症状が似ておる。これは何か毒物だと思いましてそれを探してみました。そして残留農薬ということに気付かせていただいたのが昭和34年でございます。
それ以前、昭和27年に調査が終わったその年の秋に、私は農作物がその作り方によって、内容が変わってくるということに気がついたのでございます。
化学肥料で作った農作物は味が悪くて香りがなくて腐りやすい、それに対して堆肥で作った農作物は味がよくて香りがよくて、そして日持ちが大変よろしい、ということに気がつきました。それから私は実は農学に志したのであります。
患者さんに野菜を食べさせるだけでなく、どの様な野菜が必要なのか知らなくてはいけないと思って農学の勉強をはじめたのでございます。その時に知ったことは、現在の農法はたくさんとるということだけを考えて、農産物本来の使命の健康や生命に対する意義ということについては、全く等閑に付されているということに気づきました。そしてその研究方法も、専ら分析と単純条件下における実験の寄せ集めという方法がとられていることは、先程医学のことで申し上げた同じような、工学的発想と工学的方法がこの農学の世界に侵入しておる、ここに「生命」ということが抜けておるということでございます。
私はそれから農学の研究を始めるのに、近代農法の勉強と共に、ともかく歩き回って、聞いてみてまわるという方法をとりました。片っ端から農家を尋ね歩きまわって色々なことを聞き、そして実際にその畑なり田なり果樹園なりを見て、見て、見まくるという、ともかく見るんだ、そしてそこから何かの法則を見出してくる、ということをやったのです。
ここに昭和49年に私が過去の間において、私の周りに出来た健康グループが、先程申したような食事パターンであるとか、運動であるとか、皮膚の鍛錬であるとかいう様な健康法を実施してくださり、どれほど私のところへ来る回数が減ったかという、27家庭の統計がございます。これは家族は5人に計算しなおしてあり、それからいろいろ他の病気がでますから、3歳以下、60歳以上は抜けております。それから今まであるところの慢性疾患も抜いてあります。ともかく生活を変えたらどの様に変わるかという、荒っぽい大ざっぱなものでありますけれど、この方々は全部必ず私のところに来てくださる方で、私がホームドクトルのような型をなしているものであります。
この統計では、健康法実施前、1年間に羅病回数が8.7回、私の所へ5人の家族がどなたかが1カ月半に1回来院されていたのが、実施後1年間では5.2回、2年で3.7回、3年で2.9回、4年で3.2回、5年で2.7回、と確実に減ってきております。大体3年やりますと、病気の回数が3分の1になるということでございます。回数だけではなく、重さもこの場合減るということが大体わかっております。熱心にやればもっと減ると考えております。
以前、戦争でマラリヤやらアメーバーにやられて、随分体が弱くて、戦後にはレントゲンにやられて体が弱って、病気ばかりしていた私が、健康法をやりまして、過去15、6年一度も病気をしたことがありません。お陰様でこんな弱虫でも健康に気をつけると病気をしないということがわかります。
それから、私は本当に疲れないんです。これは有難いと思っております。以前は疲れて仕方がなかったのです。私のような弱虫が、町ではタフだといって評判になるくらいに疲れないんですよ。皆さんのような丈夫な方は、もっといいだろうと思うんです。
まあそんなことで、話は戻りまして、慢性中毒のことを見つけまして、そして農薬による慢性中毒に関する所見をパンフレットにして出させていただきました。そして健康な栄養の多い農作物を求めてきたのですが、昭和34年から更にそれに加えて完全な無農薬農法を求めてきたのでございます。
(以下、次号に続く)

 

 

脱原発を求めて

 

福島原発の事故は、未だその全貌が見えず、事故終息の目処は立っていません。
日々伝えられる放射能汚染により、農畜産物にも多大な被害が出ています。慈光会では、チェルノブイリの原発事故が起こった時に原子力発電の危険性について何度も記事を掲載してきました。もう一度当時の記事を振り返ってみたいと思います。

 

 

・・・ひとたび原子炉事故が起これば、それは非常にスケールの大きい悲惨なものになります。しかもその害は私たちの世代一代限りではなく、子々孫々に至るまでの恐ろしい遺伝的な影響となって現れてきます。さらに放射能には国境がありません。降りつづける放射能と食糧汚染により、事故を起こした一国だけではなく、国境を越え、全世界的な、また、全人類的規模でその被害は波及してゆきます。・・・・・日本の原発は多くのリスクに加えて、地震の危険までも背負って稼働されているのです。・・・さらに放射性廃棄物の問題も併せて考えてみますと、放射性廃棄物は、原発事故がたとえ無くても、原発が稼働すれば必ずできてくるのは皆様ご存じの通りです。この死の灰の液は膨大な熱と放射能のため、いつ爆発するか分からない危険物で、これを処分する方法は、未だ見つかっていません。少なくとも百年間は、絶えず冷却していなければ爆発します。そしてその死の灰の液は、25mプール一杯の量で、日本の国民のほとんどを死に至らしめうる程の危険物です。・・・私達の世代で処分する方法も未解決の危険物を子供たちの代へ残してゆこうというのです。子孫への何という恐ろしい遺産でしょうか・・・

 

 

まさに今、その危惧していた事故が起こってしまいました。不安な毎日を過ごす中、以前に慈光会の講演会に講師としてお出で下さいました槌田劭氏からお手紙をいただきました。その中の槌田氏が寄稿された文のコピーには以下のように書かれています。

 

 

・・・そもそも、原子力のエネルギーは強大過ぎて、手なづけ可能と信ずること自体が傲慢なのである。人間も動物であって、室温程度の生物的化学エネルギーで生きている。燃焼の火は数百度以上の温度であり、室温より高く激しい化学反応である。数万年間、火傷、火事などのしくじりを重ねて、やっと手なづけてきたのである。それでもなお、「火の用心」が必要である。核エネルギーは、温度で表せば数万、数十万度である。原子力を制御できるなどとは危険な思い上がりである。
「失敗は成功の母」といわれる。科学技術は、しくじりに学んで進歩発展するものである。原発は投資額が巨大過ぎて、試作品による実験も出来ない。危険すぎて、過酷テストなどとんでもない。欠陥品とわかった原子炉でも、投資額が大きすぎて廃炉にできない。福島第一の事故炉は老朽の欠陥炉であった。「安全神話」を信ずる危険な「宗教」に堕落する以外に道はなかったのだろう。そして悲劇的な破綻となった。
もの豊かな文明生活は大量のエネルギー消費でなり立っているが、その本質は何だろうか。消耗し再生することのない地下資源の利用は現代人の特権ということだろうか。今さえ良ければよいのなら、未来の子孫に対する侵害である。利己的祖先をもったばかりに、未来の子々孫々は、資源枯渇に加えて、自分たちの利用しない電気のために生み出された放射性毒物の管理に苦労することになる。・・・
2011.7.8 京都新聞より

 

 

汚染が改善される様子も見られない中、安心して生活することもできず、震災以降の農畜産物や加工品がどんどん増えていくことを不安に思われる方も多くいらっしゃるかと思います。慈光会にも汚染を心配する声を頂いていますが、今後も慈光会は会員の皆様に安心して召し上がって頂けるよう、考えてまいります。
また、慈光会の指針にも挙げておりますように、公害のもとは利己心です。備えることは大事ですが、限られた食物(恵み)をどうぞ皆様、譲り合ってお買い物ください。しかし、必要なのは出荷されたものを測定して「安全なもの」「安全でないもの」と判断することだけではありません。肝心なことは「原発の廃止」なのです。そして、原発が人類の進歩に必要不可欠なもの、という誤った思い込みをなくすことが大切です。
「原子力発電は私たちのような、徳の低い人間に制御できるものではない」という前理事長の言葉を思い出し、快適に生活するために、今を生きる自分たちさえよければという考えを改め、愛する子孫の為に今、何をすべきかを考えてゆきたいと思います。
慈光会では、原発廃止に少しでも近づけるべく、日本消費者連盟からの「脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名」に協力させていただきます。一人ひとりの力は小さいものですが、集まれば大きな力になると信じています。小さな灯も、決して消してはいけません。
以下、署名用紙から転記させていただきます。

 

趣旨

 

3月11日の東日本大震災によって、東京電力福島第一原子力発電所では、1号炉から3号炉までが炉心熔融(メルトダウン)する最悪の事態が発生しました。水素爆発や工場外壁の破壊などによって、高濃度の放射性物資が海水・大気・土壌に放出されて環境を汚染する、未曽有の大事故となったのです。
放出された放射性物質は、地域の住民や労働者だけではなく、まだ生まれていない将来の子どもたちの健康と生命にとっても、計り知れない悪影響を与えるものと危惧します。
私たちは、人間の生存を脅かす計り知れない原子力エネルギーの恐怖に、多大な犠牲を伴いながら直面することになりました。この恐怖と犠牲を、未来に残してはなりません。エネルギー政策を根本から見直すことが必要です。
私たちは、自然を収奪し、エネルギーを無限に浪費する生活を見直し、自然エネルギーを中心とした「持続可能で平和な社会」を実現しなくてはなりません。そのために、原子力中心のエネルギー政策の転換を強く訴え、以下の事項の実現を要請します。
以上、ご賛同頂ける方は、署名を宜しくお願いいたします。遠方の方で用紙をご希望の方は、FAXでもお送りさせていただけますので、ご連絡ください。
署名の期限は第1次集約は2011年9月10日、第2次集約葉2012年2月28日です。
署名用紙は、慈光会で取りまとめて日本消費者連盟に送らせていただきますので、署名の原本を慈光会までお送りください。(署名のコピーやFAXは不可です。)

 

 

※ 本文中に引用させていただきました槌田氏は、チェルノブイリ原発事故の後、本を出版されました。今回、福島原発の事故を受けて内容は変えずに、小文とあとがきを加え増刷されました。興味のある方はご一読ください。
「脱原発・共生への道」槌田 劭 著
発行 樹心社 発売 星雲社

 

 

農場便り 8月

 

大暑を迎え、灼熱の太陽が農作業をする背中を焦がす。大きな麦わら帽を被ってはいるが、顔は真っ黒に焼け、麦わら帽の効果は見えない。・・・というのは去年までの大暑の様子で、今年の夏は気温もさほど上がらず、どんよりとした雲が大空を覆い、何だか盛夏らしくない。いつもなら8月の上旬頃から聞こえるヒグラシの美しい鳴き声、ニイニイゼミやアブラゼミと共に周りの深い林の中から聞こえてくる。先日は、真夏に鳴くことのないウグイスまでもが美声を発していた。
しかしながらいくら涼しい夏とはいえ、この時期日中は気温も上がるため、暑さを避け早朝より農作業を行う。25Lのデイバッグに大量のお茶と水、米酢で作ったスペシャルドリンク、それにたくさんの着替えを積め込み、バッグははち切れんばかりとなる。早朝の山中は爽快で、少しでも涼しい間にと作業を進める。そんな涼しく澄みきった空気も10時を過ぎるころには30℃を超え、元気な生き物はアリとキリギリス、それにセミだけで、早朝に群れをなして飛んでいたトンボもいつの間にか草陰へと姿を消してゆく。暑い中、ただひたすら精を出して働かなくてはならないのは人間として生まれてきた性であろうか。
農場には大きな倉庫があり、収穫された大量のじゃが芋がコンテナに入れて積まれている。早春、慈光通信で植え付け作業などを紹介させていただいたじゃが芋が育ち、6月上旬に畑から掘り起こした。二条に行儀よく植えられたじゃが芋はまず男爵、次にメークインの順に作業が進む。まず地上部の茎と葉を取り除き、マルチをめくり上げる。次にじゃが芋掘り機を使い、真っ暗な土の中で眠っているじゃが芋を太陽の光が降り注ぐ地上へと掘り上げる。掘りたてのじゃが芋は薄い皮のみで、黄金色に輝いているように見える。腰を曲げ、掘ったじゃが芋を一つ一つ丁寧にバケツに拾い集める。6月上旬とはいえ温度はかなり高くなり、作業着は汗でびっしょりとなる。額からは汗が玉のように流れ落ちる。大活躍のイモ掘り機、間違っても北海道のイモ畑を想像しないでいただきたい。我が慈光農園のマシーンは一条掘り、それも歩行型、ごくごくシンプルなかわいい機械である。集められたじゃが芋はコンテナに詰められ、農場の倉庫へと運ばれる。今年初挑戦したメークインもよく育った。他の芋と異なりランナー(茎のようなもの)を伸ばし、その先に大きな芋をたくさん付ける。少々お行儀の悪いこの芋、下手をすれば芋掘り機が真っ二つに切ってしまうため要注意である。集められたじゃが芋は10日位後に一つ一つ選果を行う。腐りや傷の付いた芋、特大や極小などを仕分け、3℃の冷蔵庫で保管し、一年を通じて逐次出荷し、会員の皆様の食卓に上がる。すべてのじゃが芋の選果し、冷蔵庫へ入れ終わった時、ホッとひと息をつく。
7月20日、南太平洋で発生した台風が迷走しながら紀伊半島に近付いた。水分を含んだ雲は大峰・大台山系に大量の雨を降らせ、五條の中心を静かに流れる吉野川を、濁流が逆巻く荒れ狂う川へと姿を変えた。大量の褐色の水は河川に生える葦や雑草を飲み込み、川幅いっぱいに流れる。畑の作物は大粒の雨に叩かれ、時折吹く強風に大きく揺れる。
ゆっくり進んだ台風も去り、大地に這ったきゅうりの苗をネットへと誘引する。この作業があと2、3日早ければ、このきゅうりは強風にボロボロにされていた事と胸を撫で下ろす。「この2、3日を見極めた私の野生の勘はたいしたものであろう。」と何事も黙ってはいられない性格ゆえ、いつものように家人にその事を話す。返ってきた言葉は、「ただ仕事が遅いだけ?それとも怠け心がそうさせたんでしょう。」と素晴らしき野生の勘の持ち主もこの一言でただのダメおやじと化した。
雨上がりの夕方、用水路に勢いよく雨水が流れる。他の畑へと車を進める途中の農道、毎年同じ光景に遭遇する。大きな草ガメが進んでは止まりの繰り返し、このままでは車に轢かれてしまうのは目に見えている。車を止め、大量の雨水が流れる用水路にカメを逃がし、無事カメの救出を完了する。これで二回目のレスキューとなる。鶴は千年、亀は万年、このカメも今から万年の間、私に幸せを届けてくれる事と自分勝手な思いに年甲斐もなく一人ほくそ笑む。しかし、放したカメが振り向く事は一度もなかった。
「カメは鈍い、速いのは新幹線」などと子供の頃よく言ったものだが、この春、日本列島は北から南まで一本のレールでつながり、多くの人が喜んだ。科学の粋が結集し、空間を切り裂くように走る姿に近代日本を見た。一分一秒を争う経済、遠く桜島を見上げる美しい鹿児島が無機的に映ってしまったのは私だけであろうか。人間時間に合った経済では幸せはつかめないのであろうか。急ぎ進んだ結果が福島の原発事故を招き、住民は移住までをも余儀なくされた。美味なる会津米を口いっぱいに頬張ることも出来なくなった悲しさ、何と愚かなことであろうか。急ぐことなく地に足を付けた歩みであったなら東北一帯が放射能による恐怖と悲しみに包まれることもなかったであろう。
庭のアジサイの葉にかたつむりが止まる。ゆっくりゆっくりと目的地に向かって進む。人も大地を踏みしめゆっくり進む。「自分のための人生だけでなく、他の人の幸せを願う心を常に持て。その事により人類だけでなく、地球上すべての生物が幾千万年もの間、幸せに過ごすことが出来る。」前理事長が話していた言葉である。耕人は耕人のやるべき使命を行い全うする。「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」幼いころ耳にした言葉が再び蘇った。

 

 

未だ来ぬカメからの使者を待つ農場作業員より