慈光通信 第170号
2010.12.1
食物と健康と農法 9
前理事長・医師 梁瀬義亮
【この原稿は、昭和53年(1978年)4月15日 くらしの研究会主催 寝屋川市で行われた梁瀬義亮前理事長の講演録です。】
農法
共存共栄の道
生かされ生かさんとして生かされる
最後に申し上げたいことは、農業者と消費者が手を組んで、消費者は少し曲がっていても虫が食べていても、栄養があっておいしく、香りが高かったらもらいましょうという気持ちになってほしいのです。
生産者は、どんなことがあってもいいものを作ってあげましょうという気持ちになってほしいのです。こうして生産者と消費者が直結して、運動を起こしてほしいのです。
今、申した生命ということ、生態学的存在であるということを忘れたから現在のような不幸が起こったのです。
生命の尊重ということ、生態学的な存在を尊重するということは、ひっくり返して人間に当てはめてみますと、先ず第一に大自然によって私達は生かされているという事実を反省しなければいけないと思うのです。太陽の距離までは一億五千キロほどありますが、それを思えば赤道と極地の距離の差など零に近いものであるにもかかわらず、あれ程の温度差が出ているわけです。太陽がちょっと近付けば地球は焼けます。ちょっと遠ざかれば凍ってしまいます。太陽がこのいいところにいてくれるということで、私達が生かされている原理があると思うのです。
私は農業をするようになってから、おてんとうさまをとても有難いと思うようになりました。大自然(太陽)に対する畏敬と感謝をもう一度、振り返ろうではありませんか。
生態的存在という意味で、私達は土の中の微生物によって生かされているわけです。そして地上の生物のハーモニーの中で人間は生かされているわけです。そこで生かそうと努力してまた生かされるという意味で、他の動物をできるだけ大事にする、殺さない。いまの文明は、殺すということと、奪うという発想のもとにできた文明なのです。
医学でも、バイ菌を殺すという発想のもとにできています。或いは栄養をとってこなければという発想です。農業でも害虫を殺す。土の中のバイ菌を殺すということで、殺すということと奪うという言葉が常に出てくる文明なのです。
人間の世界でも、相手を倒さなければ自分が生きられない、生存競争ということが、人間の生存の原理であるように思われている現在ですが、ほんとうは土の中の生態系に生かされ、太陽に生かされ、土に生かされ、そして人間同士、また、他の動物とのハーモニーの中で生かされているという意味で、私は、殺さない、奪わない、という発想の文明にもっていかなければと考えます。
生かされ、生かさんと努力してまた生かされるという共存共栄の発想の文明を考えなければいけないと思うのです。これは、大変大きな問題だと思うのです。古今東西を問わず、人類で偉大だといわれる人はみんな、共存共栄、あるいは生かされ、生かさんとして生かされるということをいっています。にもかかわらず、その反対といわれる思想が、私達の文明を作っているということは、非常に恐ろしいことと思うのです。
仏教でもキリスト教でも、大自然を敬愛し、隣人を愛することによって自分が生かされるという共存共栄の事を云っています。シュバイツァー博士でも、あるいは湯川先生、岡潔先生でもみんなこういうことを言っておられます。しかし、それと反対の思想が、現在の社会、教育を支配しているのは、本当に恐ろしいことです。
自分さえよければの思想
― 世界の大公害国日本
農業をやってみて私が思ったことは、大自然の有難さ、尊さ、太陽に生かされているということなんです。
土に生かされ、空気に生かされ、太陽に生かされて、ありとあらゆるものによって生かされている。だから私達の行動は、生かそうとして生かされているのだということです。これが徹底すると、みんなが生かそうとするので公害はなくなります。
今の公害というのは、自分さえよければ他はどうなってもいいという間違った発想から出てきた事件でございます。
農業公害でもそうなんです。自分で食べられないものは他人にも食べさせないという気持ちがあれば、今のこんな農法なんかやらないですよ。けれど自分が食べるのでないからいいだろうと農薬をかけているのです。
加工食品を作る人は、こんなものを作っては駄目なのだが、まあ、自分は食べないからいいだろうと思っている。農家は加工食品を食べる、加工食品業者は農産物を食べる、ということでお互い毒殺のしあいですよ。
公害の原理というのは、結局世界観のあやまりで、生存競争は生存の原理だという錯覚から出ていると思うのです。
政治家は自分の事を考えて民衆を思わず、民衆は自分の事ばかり考えて人を思わず、このぐるぐるまわりが日本をして世界の大公害国にしてしまったのです。
最終的に日本が生き返るか駄目になるかは、近代思想を教える学校教育と同じくらいの影響を、正しい意味の宗教が持つか持たないかにあると思うのです。(宗教というのは教団の事ではないのです)
世界観が正しくされるかされないか、正しくする運動が日本の中でどこまで根を張るか、これによって日本人が公害からまぬがれるか、まぬがれないか、決まって来ると思うのです。
私は公害問題をやっていて最後の結論はそんなところに来てしまったのです。ある意味では絶望的なところがあります。ある意味では、まだこれからこういう運動をすすめていったら、うまくいくという道も開けているわけでございます 。
【完】
以上は寝屋川市民会館での梁瀬先生の講演をまとめたものです。一語一句、違わないというわけにはまいりませんでしたが、先生のお話の内容は、ほぼお伝えできた事と思っております。 〈くらしの研究会〉
「講演と音楽の集い」を終えて
去る11月28日、五條市市民会館に於いて「講演と音楽の集い」を開催させていただきました。何かと行事の多い月にも拘わらず、五條市市民会館大ホールに多くの方がお集まり下さいました。
第一部「講演の部」では講師に保田茂先生をお迎えし、「日本の食の未来と私達の暮らし」というテーマで、約一時間の講演をして下さいました。保田先生は、日本有機農業学会の会長や日本有機農業研究会副理事長を歴任され、現在は神戸大学名誉教授で農学博士、兵庫農漁村社会研究所の代表として活躍しておられます。
保田先生は最初に梁瀬義亮前理事長との御縁をお話し下さいました。前理事長は昭和30年初期より医師の立場から農薬の問題を訴え、数々の圧力を受けながらも食べ物の安全や人々の健康を考え、10数年間孤独な戦いを続けていました。ようやく昭和46年に数名で日本有機農業研究会が発足され、前理事長とはその時以来のお付き合いという事で、当時の事をお話し下さいました。
その後の講演で先生は、昭和20年頃から食生活と共に生活様式が変化してしまったとおっしゃいました。その原因は、大人が子供の幸せを考えず、自分の幸せだけを考え、このような社会にしてしまったことにあります。日本が、食べ物に困ることも健康を失うこともなく、美しい自然が守られ、世界に自慢できる日本の国であれば、今ここにいる子供たちが幸せに暮らす事が出来ます。私達はそのような社会を作らなければいけません。慈光会が、人々の健康を考え、正す意味もここにあります。生物は、進化の過程で獲得した食べ方を親が子に正しく教えているので、今も昔も食べ方が変わりません。しかし、現代の日本人は親が子に正しく教えていないので、食べ方が変わってしまいました。今、私達がしなくてはならない事は、食の安全を考え、原点に戻り、日本の農業を見つめ直し、作り手を育てることなのです、と分かりやすく笑いを交えながらの講演でした。
もう一度、前理事長の
『 癌が増えています! 完全無農薬有機栽培の野菜(菜っ葉、根菜共)には、癌を防ぐ強い作用があります。イモ、マメ、菜っ葉、海藻などをしっかりお召し上がり下さい。』
この言葉を胸に、正しい食生活を心掛けたいと思います。
第二部 音楽の部では、京都市立芸術大学出身で、現在多方面でご活躍中の演奏家、佐藤響氏、村上彩氏、宋和映氏の三人が、チェロ、ヴァイオリン、ピアノのトリオで演奏して下さいました。
演奏会は、ヘンデルの組曲「水上の音楽」より?ホーンパイプ?で、チェロ、ヴァイオリン、ピアノのトリオの演奏から始まりました。次の前理事長がこよなく愛したベート―ヴェンのヴァイオリンソナタ「春」は、繊細なヴァイオリンとピアノの美しい澄んだ音が会場を包み込みました。フォーレの「夢のあとに」ではチェロの深く心に響く音が広がりました。その後もサンサーンスの「白鳥」やチャイコフスキーの「くるみ割り人形」など馴染み深い曲やピアノのソロなど若い演奏家の方々の迫力のある演奏が続き、予定していた時間を過ぎるくらいに演奏して下さいました。演奏が終わると会場からは大きな拍手がいつまでも続いていました。
後日、会場に来てくださっていた方々から色々な声が寄せられましたので紹介させて頂きます。
◇初めて「講演と音楽の会」に参加させていただきました。最初は家内に渋々ついて来ただけでしたが、講演が始まり「この会場には中学生が来ています。あなたたち大人に彼らの未来を奪い取る権利はありますか。」という言葉にグサリときました。私にも孫や子供がいますので、話に真剣に聞き入りました。またクラシックには今までご縁がありませんでしたが、美しいヴァイオリンの音に何かしら分からずに、目頭が熱くなりました。
◇友達を誘い参加しました。講演会や音楽会などにはあまり興味のない友達でしたが、「講演も楽しかったし、音楽があんなに美しいものだとは知らなかった。この次があるなら絶対にまた来たい」と言っていました。是非またこの会を開催してください。
◇若い方々の演奏に圧倒されました。私も音楽関係者ですので、片田舎のホールで手を抜かずに一生懸命演奏している姿を見て勇気をいただきました。素晴らしい演奏を聴かせていただきましてありがとうございました。
農場便り 12月
北風が群れをなして飛ぶ小鳥を飲み込んだ。小鳥たちは、右に左にと大きく軌道を外し、小さな体に持てる力をすべて出して群れを立て直し、葉を落とした雑木山へと姿を消す。
黒色のちぎれ雲が、日本海から和泉山脈や金剛山系を越え、流れて来る。時折降るにわか雨が冷たく頬をたたく。しばらく目を楽しませてくれた紅葉もすべて散り終え、その後には、路面に色とりどりの落ち葉が敷きつめられる。落ち葉は、朝夕、農場の行き帰りに車で走るたび、後を追うように舞い上がる。初冬の風景は寂しく、大自然の寝息が聞こえてくるようである。毎年同じ風景に見えるようで何かが違い、目に入る風景に時には癒され、時には深い谷間のような暗い世界へと引き込まれる。秋を感じ、より大きく太い糸を張りめぐらせた悪魔のような女郎グモの姿も消え、空き家となったクモの巣だけが北風に揺れる。
畑に目を移すと、周りの沈んだ風景とは別世界の青々とした野菜が、一面に育つ。今まで数多くの冬野菜を紹介させていただいた。特に寒い時期には、家族団らんで一つの鍋を囲み、楽しくいただく鍋料理。その具材の殆どはもう紹介させていただいたが、最後の一手、鍋が煮上がってからふたを取って最後に入れる「春菊」、これを鍋シリーズのラストを飾る野菜として紹介させていただく。
春菊の原産地は地中海沿岸、春菊の名は春に菊に似た花が咲くということから春菊と呼ばれるようになり、関西では葉が菊の葉に似ていることから菊菜と呼ばれている。葉の形状は大中小の3種があり、大葉は香りが弱く、中葉は香りが強い。現在の栽培の殆どが中葉で、小葉はほとんど栽培されていない。この香りのよい春菊は、東アジアのみで食用とされている。栄養価はβカロチン、ビタミンB1・C、カルシウム、鉄、食物繊維が多く含まれ、その含有量はホウレン草や小松菜を上回る。βカロチンはガンを抑制し、肌の老化、動脈硬化、高血圧などの成人病を防ぐ。また風邪の予防や便秘、整腸、食用増進に役立ち、特有の香りは自律神経に作用し、消化吸収を良くする。セキやタンを鎮め、昔から「食べる風邪薬」と呼ばれてきた。最近では、香りを楽しむ食べ方として、生のままでサラダなどにも使われる。寒さに身をすくめる夜、鍋料理でシャキシャキ感の残る春菊をお楽しみいただきたい。家庭内での会話が減ったといわれる今日、「鍋の日は会話が増える」という学術データにもあるように、家族全員で分け合いながらいただく鍋料理、立ち上る湯気は家族を一つにする。
11月11日 早朝、大地に自然のパウダーシュガーが振りかけられたように初霜が降りた。寒さに弱い雑草は、葉がしもやけになり真っ黒に色を変えた。
11月23日は勤労感謝の日、昔からこの日は、一年間無事に農作業に従事でき、たくさんの農作物をいただいた事に感謝し、神棚にお米を供え、家族全員で柏手を打ち、手を合わせて祈り感謝する日であった。しかし、労働者の権利を主張し、それを良しとする近代社会において、勤労感謝の本筋とはかなりかけ離れたものとなってしまっている。日本農業も経済社会の一部となり、人々の生命を守る使命は完全に排除され、「自然の中で生かされている」という謙虚な心は微塵も感じられなくなってしまった。来年にも日本列島を飲み込もうとしているPTTの波が、日本農業を崩壊の道へと導く。
現在、我が国の農産物の一番の輸入国は中国である。最近、中国との関係はギクシャクしているが、現在の日本の食は中国に頼らなければならない状況にある。日本農業の行く末を祈らずにはいられない。その中国の古い言語に「忘年」がある。若者が師と仰ぎ、学んだ老人に年に一度会い、夜を徹し、年の差を忘れ、世を語る。これが忘年会の根源である。夜を徹して美酒に溺れる日本の忘年会とは少々違ったものである。
この一年、大自然は時に人類に牙をむき、
厳しい時期が多くあった。懐広くあたたかく見守ってくれる大自然のはずが、私達の間違った進路に警告を発してくれているのであろうか。
農作物の生産には全力で向かっているが、大自然の中では無力となり、当会でも不出来な農産物もあり会員の皆様にはご迷惑をおかけしてしまった。それらすべてをご理解、ご協力いただいた事を心より感謝いたします。
私の大好きなチェロ曲、フォーレの「夢のあとに」、低いチェロの音が深部に響き、自分自身を見つめ直させてくれる。「農に励み、農で素晴らしい人生を終えることができますように。一人でも多くの人が幸せに暮らせますように。」と凡人である事を謙虚に受け止め、土に向かう日々を送る。
一年間どうもありがとうございました。皆様にとって輝く素晴らしい年を迎えられますよう、農場よりお祈り申し上げます。