慈光通信#123-#130



100号を迎えて
  

理事長 梁瀬 義範


    
       
一九八七年七月に「慈光通信第一号」を発行してから一〇余年の歳月が経ち、この度一〇〇号という節目を迎えることとなりました。紙上で慈光会の趣旨や活動を紹介し、会員の皆様との交流を図るという大きな目的を持ち、これまで前理事長の原稿や、環境問題などを取り上げたレポート等掲載して参りました。又、会員の方からのお便りや原稿、慈光会協力農家と直営農場からの四季折々の雑観等も載せさせて頂きました。現在では発行部数も五〇〇部程になり、遠方の読者へも定期的に郵送させて頂いております。これも偏に、皆様方のご協力の賜物と、感謝申し上げております。
今回は前理事長の七回忌と一〇〇号記念が重なるため、いつもとは趣向が異なりますが、前理事長ゆかりの原稿で特集を組ませて頂きました。原稿をお寄せ頂きました方々に紙面を借りまして心より御礼申し上げます。
さて、振り返りますと、前理事長梁瀬義亮が日本で初めて農薬の危険性を世に問うてから四〇年の月日が経ち、この間に様々な運動が起こりましたが、この公害は改善されるどころか、現在、益々その危険性を増していると言っても過言ではありません。農薬を使用したものを「無農薬有機栽培」と偽って、健康を害している人々を相手に利潤追求をしようとする団体も現れ、胸の痛む現状です。又、新しい環境に対する大きな問題も発生してきております。
こうした公害の根は、人間の誤った人生観や世界観に根差していることを、慈光会は設立当初より一貫して指摘して参りました。即ち「人間は大自然に生かされた生命体であるという事実、又生態系の一員としてのみ人間の生存は許されるという事実、人間同士は勿論のこと、他の生命体とも生かされ、生かし、又生かされるという事実のあることを認識し、大自然に対する畏敬の念を持つ」ということが、公害撲滅への最も大切な方法であると考えております。今後とも慈光会のこの原点を大きく掲げ、純粋に運動を進めて参りたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
  

梁瀬義亮先生の思い出
  

中西 栄男


    
       
私は昭和四九年より、昭和五九年二月に病気で倒れる迄の十年間、須恵の神宮寺神社の東側の旧慈光会健康食品販売所で所長として他の御婦人方三名と共に勤務させていただきました。この販売所ができて間もない或る日の午前九時頃(販売所は午前八時より勤務開店準備し、午前十時に開店販売致しました。)梁瀬先生が突然販売所にお見え下さいました。其の時御婦人方三名の勤務員は販売所の裏で協力農家より出荷せられた野菜類の販売準備に一生懸命でした。私一人が店内で商品の陳列準備を致して居りました。梁瀬先生は「此の近くまで来たので一寸立ち寄りました。」と申され、店内で陳列準備をして居りました私の両手を、先生の暖かい両手でぐっと握りしめ、「中西さん、頼みますよ。頑張って下さいよ。」と励まして下さいました。昭和三七年以来既に十余年にわたり、私共に有り難い仏法をお説き下さっている本当に菩薩の様な先生から両手を握って励まされました時は、余りにも勿体なく、有り難く感涙に咽びました。それ以来、此の販売所の事に関して「勤務員の態度、商品、販売価格等あらゆる点に於いて、梁瀬先生の信用を傷つける様な事があっては絶対にいけない。」とそれのみを願って誠心誠意約十年間勤めさせて頂き、お蔭様で大過無く過ごさせて戴いたことを、本当に有り難く嬉しく思っている次第でございます。
 今後も慈光会健康食品販売所の益々のご繁栄をお祈り申し上げます。
  

生かされ、生かし、また生かされる
  

井西 おさむ


    
       
「山本山」といえば、女優山本陽子さんの顔がすぐに浮かび上がる程にテレビで売り込んだ海苔とお茶の老舗である。
 「食品添加物読本」著者郡司篤孝さんによると、凡そテレビ、ラジオは勿論、宣伝に金をかけている企業の商品(主として食品)は原則的にその安全性に疑わしいものが多いと、分析データーを示し、名指しで胡麻化しぶりを暴露していらっしゃる。一読以来先生のファンになった私などは、その教えに従い、有名タレントなどを使ったCMの食品は絶対買わないし、機会有るごとに、その害毒を宣伝しまくっている。
 ところで、「食品と暮らしの安全」一一一号(日本子孫基金発行)に緑茶にグルタミン酸ナトリウム添加の記事が載っている。入手した二十二品中、不自然なうまみを感じた七品について検査をおこない、その測定結果を表示しているが、製品にナトリウム濃度の基準値を超えたものが二社ある。「山本山」と「佐藤製茶」。郡司先生の予言が見事的中、やはりという感じである。佐藤製茶の知名度については山本山ほどに高くはないようだが、通信販売で減農薬と有機栽培を売りものに、最近急成長を遂げた企業だそうである。ところが調べてみると、有機栽培は真っ赤な嘘だということが分かったそうだ。
 私たちが利用させて頂いている慈光会のように、絶対的信頼を寄せ得る販売店などは他に求むべくもないが、こうなると、有名無名を問わず、義務付けられた添加物表示だけで、メーカーの信用を見極めることなど至難の業で、消費者にとっては、全くお手上げということになる。
 梁瀬先生が農薬という化学物質の害に気付かれ、それは人類の滅亡につながる死の農法であると、世界に警鐘を発したのは今から凡そ四〇年前である。『大自然の叡知と能力を無視して奢り昴ぶる人間至上主義。この誤った原理の上に立った近代文明は生命無視の暴走を続けた。…略… 同じ母なる大自然の子であるという自覚から「生かされ」「生かし」「また生かされる」という共存共栄の原理に立ち返ろう』と叫ばれた。
 昨年一〇月、先生のご遺志に沿った、慈光会主催の環境ホルモン講演会が催された。講演は「食卓にひそむ毒性物質」「不安な遺伝子操作食品」「ダイオキシンの原因を断つ」「子孫を絶やす環境ホルモン」という四つのテーマ。環境破壊の実態に息を呑むばかりだ。人類は四〇年前の先生の警鐘をどのように受けとめたのだろう。破壊の進行は今も尚拡大の一途を辿っている。「もっとよい楽な生活を」という自我中心の欲望が地球をここ迄破壊して来た。今一度「人類、共存共栄の原理に立ち返ろう」と呼びかけられた先生の声に深く耳を傾けよう。
  

思いがけないレコード鑑賞
  

御勢 千鶴子


    
       
何年前のことだろう、まだ先生のご自宅で仏教会を開いて下さっていた頃のことである。
時刻をとりちがえ一時間も早くおじゃますると、ショパンの曲(確か幻想即興曲だったと思う)が聞こえてきた。誘われるようにお部屋に上がらせていただくといつものように座布団が敷きつめられた左側に大きなステレオがおかれ先生が静かに座っておられた。目礼をし、いつもなら大勢こられているのに……?と時計を見る私に先生は、「丁度よかったですよ。このステレオ買ったのです。いい音色でしょう。皆さんが来られるまで鑑賞しましょう。」と微笑みながらまるで宝物を愛でるようにステレオを見ながらおっしゃってくださった。
「ベートーヴェンは、お浄土の音を聴かれた。高次元の声を聞いた・そしてそれを楽譜に写していった。祈りから直感したすばらしい救いの光をどう曲にして皆に伝えようか……と考え、それを第九によって伝えた。」と、折にふれておっしゃておられた梁瀬先生。ベートーヴェンの曲・メロディを「真如からのお光り」と確信しておられた先生。すでにこのステレオでベートーヴェンの曲を……と、想像しながら嬉しく拝聴させていただいたのを、私は今、有り難く思い出している。
 先生の居られる場はいつも静かで穏やかであたたかで、先生がお座りになっておられるだけで、そこは平安の場となった。
 その日も時とともに一人また一人と会場の座は埋められていったが、驚くことに音をたてて入ってこられた方ひとりなく、話し声をたてられる方もいなかったのである。
 曲が終わり、何か満ち足りた想いで仏教会へと移りおはなしをお聞きした日のことがとても懐かしく想いだされるのである。
  

梁瀬先生に初めてお会いした時の思い出
  

岩手県 山口 博文


    
       
私が初めて梁瀬先生にお会いしたのは今から二十三年程前、有吉佐和子さんの小説「複合汚染」を読んだのがきっかけでした。
そこに紹介されていた慈光会の農場を一目見たいと思ったのです。
ただし、その本には「梁瀬先生はとても忙しい方なので勝手に会いに行かないで欲しい」ということが書いてありました。ですから農場を見せて頂いたらそのまま帰ろうと思っていたのです。
慈光会の販売所で農場の場所を尋ねたところ、義範さんが「僕が案内しますから」と車で駆け付けてくれました。
急な山道を登り、遠くが一望できるところに農場はありました。  畳を敷いた果樹園、石ころを取り除きながら開墾した冬の畑にキャベツが力強く育っていました。それから広い堆肥農場、渇水の時のための貯水槽などなど、まだ有機農業を始めたばかりの私にとって驚きと同時に、完成されていると言えないものの何か神聖な空気のようなものを感じたことが強く印象に残っています。
帰りの道すがら、義範さんは農場の苦労話などを気さくに話してくれ、その後に父が待っているからと案内してくれたのです。
 梁瀬先生は忙しい診察の合間をぬって私達に会って下さいました。そして農場のことや、私の母が永年リューマチを患い亡くなったばかりでしたので病気の事などについて色々教えて頂いたのです。
 その後、私が栽培していたりんごについてとても興味を持たれ色々質問されました。しかし、りんご栽培も未熟だった私には満足のゆくような答えができず、今にしてみればとても残念でなりません。
 その五年後、私と妻は再度先生を訪れました。その数年後はるばる遠い岩手まで御足労願い先生に講演をして頂きました。その講演をきっかけに先生の影響を受けた人が沢山おります。
 先生が天に召されてもう七年も経ってしまいました。お目にかかったのは少なかったのですが、それゆえに最近のことのように思い出が鮮烈によみがえってくるのです。
  

 エコロジー
  

内藤 ゆき子


    
       
「今や地球環境と生態系の破壊を回避する対策可能な最終時点に来ていると思われます。」わたしたちの子孫がこの美しい自然と共存共栄の社会が享受できますようにとの切なる願いをこめて梁瀬先生が声明文を世界各国へ向けて出されたのが一九九〇年でした。以来一〇年という歳月が経ちました。この間、仰天するような恐ろしい事件が国の内外を問わず頻発しました。環境問題においても、いまだに人類滅亡の危機に瀕しているという実感に裏打ちされた活動は一般に浸透していきません。
先日の日本子孫基金の三宅氏による講演の中で、農薬の世界的開発メーカーが子孫を残さないターミネーター種子というものを作り出したというお話しがありました。遺伝子組み換え操作作物によって人類に十分な食糧を供給するという大義名分はどこへ行ったのでしょう。この期に及んでもなお人間は自分自身のいのちさえも巻き添えにしてあらぬ方向へ突っ走っていきます。人間社会が複雑になりすぎて私たちは形骸をいのちと錯覚し、本来のいのちの営みを見失っているのでしょうか。
自分自身を振り返ると、人類滅亡の事態を招く人間の姿は飽くまで外側に在るものではないことに気づきます。貪欲な自分。自他断絶の心が一人歩きする自分。自分の目以外ではものごとを測り得ないのに自分のメガネに拘泥する自分。そして、いよいよ死の淵に立つ時、こんなに大切に先ず何がなんでも第一に思んばかった自分というものから『離脱させてください!』と阿弥陀様に縋り付く我が姿が見えるのです。これが、事実、自分の姿です。哀れな自分であります。
 しかし、こういう自分をひっさげているからこそ、愚直に先生から今なおいただく馬力で今日まで励まされ正され生かして頂いてきました。先生は、仏教の教えはエコロジーそのものですと言われました。三世の悠久の眺めの中に私たち(私)は今ここにこのようないのちを頂いているということではないかと思います。
 本来いのちは、私たちが認識するとかしないとかに拘わらず、既に静かにお互いに響き合って生かし生かされしているのでしょう。いのちが互いに響き合う姿の前に合掌し低頭しながら皆様とともに仏道修行に励まして頂きたいと願っております。
  

 お光りに導かれて
  

西尾 みち


    
       
次の文は本年三月に癌で死亡した愚弟が四・五年前に勤務先の社内機関紙に投稿したものです。私的な記事で貴重な慈光通信欄の御迷惑と思い、随分躊躇した挙げ句、敢えて投稿させていただきました。


梁瀬先生
鈴木 登


 梁瀬先生。小生の最も尊敬する人である。但し、お会いしたことはない。小生の姉が師事した医師であり、農業科学者であり、公害論者であり、宗教家である。奈良県五條市のお寺に生まれ、京都大学医学部卒、軍医としてフィリピン戦線に従軍、九死に一生を得て帰国、県立尼崎病院で公害患者を診た後、故郷に帰って医院を開業、傍ら財団法人慈光会を結成して無農薬有機農業を広め、かつ五條仏教会を主催された。
 梁瀬先生といっても知らない人が多いと思うが、有吉佐和子の「複合汚染」(一九七五年新潮社刊)という本は、当時のベストセラーだから読んだ人もいるだろう。「複合汚染」には公害と闘っている人々が実名で登場するが、その中で梁瀬先生に関する記述が最も大きい部分を占めている。私事ながら、小生の姉は五條市の農家に嫁ぎ、約半世紀の間、先生から親しく有機農業の指導を受け、先生の仏教講話を聴き、そして自身も身内の者も先生の診察を受けた。小生はその姉の勧めにより、数年前にNHK教育テレビで先生の仏教講話を聞き、且つ先生の「仏陀よ!」(一九八六年地湧社刊)を読んで感激し、そのうちに直接に 謦咳に接したいと思っていた。しかし、お目にかかれないうちに先生は一九九三年五月十七日他界された。痛恨事である。
 梁瀬先生の有機農業のあり方、農薬と健康の関係については「複合汚染」を読んで頂きたい。ここでは先生の宗教観の要点をご紹介することにする。
先生は戦争経験、農薬による自然破壊、農薬患者の診察、仏教への帰依等を通じて、近代科学によって開発、推進された近代文明は、予想され期待されたバラ色の「生の文明」ではなくして、その逆の恐るべき「死の文明」であることを認識しその認識に立って近代文明を反省し、その欠点は、 人間至上主義 唯物論 自他断絶の二元論にあると結論する。例えば、近代文明思想の草分けであるイギリスのフランシス・ベーコンの「自然を征服することが文明の目的であり、それによって人類の幸せが招来される。」という考え方やドイツのフォイエルバッハの「昔は神が人間を作った。今は人間が神を作る。」といった考え方こそ公害に蝕まれ、原子力放射線の恐怖にさらされている現在の不幸な人間社会を生み出したのだと断定する。
そのような近代文明への反省が先生の宗教観のバック・ボーンを形成している。先生は、そういう近代文明的思考方法とは逆の考え方に立っている。仏教では自我中心的な考え方を無明(むみょう=迷い)といって最も戒むべきこととされているが、先生はそういう近代文明的考え方を無明と断定、人間至上ではなく仏陀を至上とし、物よりも生命を尊重し、自他断絶ではなく万物の融合を説かれる。
梁瀬先生の死去に際しては地方紙はもとより、朝日、読売、産経の各紙、週間新潮、文芸春秋も丁重な追悼文を掲載しているが、その中でも読売新聞(一九九三年五月二三日)は、「仏陀逝く」というタイトルで追悼している。五條市の片田舎での葬儀には一五〇〇人を超える人々が参列し、それらの人々により追悼集が発刊されているが、それらの人々は、いずれも先生の死に顔には後光が差していたと記している。日常すべてを仏陀中心に考え「生きる」のは仏陀によって「生きさせて頂く」であり「食べる」のは「食べさせて頂く」のであり「死ぬ」のではなく「死なせて頂く」のである、という考え方に立っていた梁瀬先生であるからこそ、さもありなんと思われる。人間すべからく美しい死に顔でありたいものである。先生の最後の言葉は、「僕に間違いがあったら、今、言ってくれ。ありがとう。」であったという。 


 この文を本人から送られた当時「梁瀬先生の御仁徳の何万分の一も解してくれていない。」と思ってそのまましまってありました。その後、三年前に胃癌にかかり昨年は肝臓に転移、今年になり肺にも転移して死亡しました。亡くなる一カ月前に見舞いに上京した時は、すっかりやつれ果てて哀れな姿でした。去る三月命危ないとの報に上京しましたが既に永眠しておりました。然し弟の姿にハッと驚きました。静かな平穏な美しい顔で安らかに眠ってくれている。長い間の闘病の後は少しもない。そして枕辺に梁瀬先生のお著書「仏陀よ!」「死の魔王に勝て」を発見して、「そうだ、先生のお光に救って頂いたのだ。」「先生のお陰で安らかに往生させて頂けたのだ。」
 「先生、有り難うございます。有り難うございます。」胸に熱いものが一杯に込み上げて合掌いたしました。次男に生まれ、二十才過ぎからずっと東京での生活で無信心者と決め込んでいましたが、先生のお著書のお陰でお救いいただきました。今更のように梁瀬先生の御高恩に温かいお光りに感謝申し上げました。
 年毎に荒みゆく世に、次々と耳を蔽いたくなるような事態が起こり、先生御在世下さったらどんな御教示をいただけるだろうか。日に何度もそう思い家族とも語り合うこの頃です。「どんな世になっても案ずることはない。仏陀を仰いで信じてひたすら行じなさい。必ずみ光に救われます。」とお説き下さったお言葉を忘れず、少しでも精進させていただきたく存じます。仏教会でお聞かせいただくテープは梁瀬先生の真理の国からのお声と信じます。

慈光通信#123-#130