梁瀬先生
鈴木 登
梁瀬先生。小生の最も尊敬する人である。但し、お会いしたことはない。小生の姉が師事した医師であり、農業科学者であり、公害論者であり、宗教家である。奈良県五條市のお寺に生まれ、京都大学医学部卒、軍医としてフィリピン戦線に従軍、九死に一生を得て帰国、県立尼崎病院で公害患者を診た後、故郷に帰って医院を開業、傍ら財団法人慈光会を結成して無農薬有機農業を広め、かつ五條仏教会を主催された。
梁瀬先生といっても知らない人が多いと思うが、有吉佐和子の「複合汚染」(一九七五年新潮社刊)という本は、当時のベストセラーだから読んだ人もいるだろう。「複合汚染」には公害と闘っている人々が実名で登場するが、その中で梁瀬先生に関する記述が最も大きい部分を占めている。私事ながら、小生の姉は五條市の農家に嫁ぎ、約半世紀の間、先生から親しく有機農業の指導を受け、先生の仏教講話を聴き、そして自身も身内の者も先生の診察を受けた。小生はその姉の勧めにより、数年前にNHK教育テレビで先生の仏教講話を聞き、且つ先生の「仏陀よ!」(一九八六年地湧社刊)を読んで感激し、そのうちに直接に 謦咳に接したいと思っていた。しかし、お目にかかれないうちに先生は一九九三年五月十七日他界された。痛恨事である。
梁瀬先生の有機農業のあり方、農薬と健康の関係については「複合汚染」を読んで頂きたい。ここでは先生の宗教観の要点をご紹介することにする。
先生は戦争経験、農薬による自然破壊、農薬患者の診察、仏教への帰依等を通じて、近代科学によって開発、推進された近代文明は、予想され期待されたバラ色の「生の文明」ではなくして、その逆の恐るべき「死の文明」であることを認識しその認識に立って近代文明を反省し、その欠点は、 人間至上主義 唯物論 自他断絶の二元論にあると結論する。例えば、近代文明思想の草分けであるイギリスのフランシス・ベーコンの「自然を征服することが文明の目的であり、それによって人類の幸せが招来される。」という考え方やドイツのフォイエルバッハの「昔は神が人間を作った。今は人間が神を作る。」といった考え方こそ公害に蝕まれ、原子力放射線の恐怖にさらされている現在の不幸な人間社会を生み出したのだと断定する。
そのような近代文明への反省が先生の宗教観のバック・ボーンを形成している。先生は、そういう近代文明的思考方法とは逆の考え方に立っている。仏教では自我中心的な考え方を無明(むみょう=迷い)といって最も戒むべきこととされているが、先生はそういう近代文明的考え方を無明と断定、人間至上ではなく仏陀を至上とし、物よりも生命を尊重し、自他断絶ではなく万物の融合を説かれる。
梁瀬先生の死去に際しては地方紙はもとより、朝日、読売、産経の各紙、週間新潮、文芸春秋も丁重な追悼文を掲載しているが、その中でも読売新聞(一九九三年五月二三日)は、「仏陀逝く」というタイトルで追悼している。五條市の片田舎での葬儀には一五〇〇人を超える人々が参列し、それらの人々により追悼集が発刊されているが、それらの人々は、いずれも先生の死に顔には後光が差していたと記している。日常すべてを仏陀中心に考え「生きる」のは仏陀によって「生きさせて頂く」であり「食べる」のは「食べさせて頂く」のであり「死ぬ」のではなく「死なせて頂く」のである、という考え方に立っていた梁瀬先生であるからこそ、さもありなんと思われる。人間すべからく美しい死に顔でありたいものである。先生の最後の言葉は、「僕に間違いがあったら、今、言ってくれ。ありがとう。」であったという。
この文を本人から送られた当時「梁瀬先生の御仁徳の何万分の一も解してくれていない。」と思ってそのまましまってありました。その後、三年前に胃癌にかかり昨年は肝臓に転移、今年になり肺にも転移して死亡しました。亡くなる一カ月前に見舞いに上京した時は、すっかりやつれ果てて哀れな姿でした。去る三月命危ないとの報に上京しましたが既に永眠しておりました。然し弟の姿にハッと驚きました。静かな平穏な美しい顔で安らかに眠ってくれている。長い間の闘病の後は少しもない。そして枕辺に梁瀬先生のお著書「仏陀よ!」「死の魔王に勝て」を発見して、「そうだ、先生のお光に救って頂いたのだ。」「先生のお陰で安らかに往生させて頂けたのだ。」
「先生、有り難うございます。有り難うございます。」胸に熱いものが一杯に込み上げて合掌いたしました。次男に生まれ、二十才過ぎからずっと東京での生活で無信心者と決め込んでいましたが、先生のお著書のお陰でお救いいただきました。今更のように梁瀬先生の御高恩に温かいお光りに感謝申し上げました。
年毎に荒みゆく世に、次々と耳を蔽いたくなるような事態が起こり、先生御在世下さったらどんな御教示をいただけるだろうか。日に何度もそう思い家族とも語り合うこの頃です。「どんな世になっても案ずることはない。仏陀を仰いで信じてひたすら行じなさい。必ずみ光に救われます。」とお説き下さったお言葉を忘れず、少しでも精進させていただきたく存じます。仏教会でお聞かせいただくテープは梁瀬先生の真理の国からのお声と信じます。