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食品公害による日本民族の危機
  

前理事長・医師 梁瀬 義亮



【この原稿は昭和五七年(一九八二年)に慈光会会誌に掲載されたものです。】

合成洗剤について 

合成洗剤の害についてはまず皆様の知っておられることは手の皮が薄くなってひび割れして痛むことですが、害はそれだけではありません。吸収されて肝臓障害や動脈硬化、免疫力低下を起し、また遺伝毒性や催奇形性も報告されています。あのドブ鼡が全滅したことや魚の奇形等は合成洗剤が最大原因と思われます。
 合成洗剤は河川湖沼や海を汚染することはご存じの通りです。是非合成洗剤をやめて石鹸を使用して下さい。石鹸の洗滌力は前日から石鹸水に浸しておけば合成洗剤に勝るのです。又最近合成洗剤を石鹸に混ぜて改良石鹸と名付ける等消費者を胡麻化す様なものがありますからよくよく御注意下さい。
 その他プラスチックやビニールについても溶けてきて害を与える可能性のあることに御注意下さい。

 おわりに

 平和と幸福、健康と長寿をもたらすべく人類が数百年間その叡知を傾けてつくり上げたこの近代文明が、そのすばらしい機械力や諸設備にもかかわらず、所期の目的とはうらはらな結末となり、今や人類は公害によって慢性に滅びるか核兵器で急性に滅びるか、滅亡以外にないことが世界中の識者によって叫ばれています。しかも人々の願いと叫びとは反対に世界はどんどん破滅への道を進んでゆきます。これは何故でしょうか。
 思えば工学の発達はその成果をもたらし、すばらしい機械文明が出現しました。しかし医学や農学はその見事な発達にもかかわらず所期の目的とは反対の結末になっています。病人や病気は増える一方ですし、病虫害はますます多発して農作物は出来にくくなってしまいました。教育学、政治学、経済学もその進歩にもかかわらず、所期の目的を将来しません。
 生命の関与せぬ部門(工学部門)に於いて学問の発達はその成果をおさめ、得ぬのみか逆の結果にさえなるということは何を物語るのでしょうか。
 現在の学問、従ってその成果である近代文明に於いて思考錯誤は匡正されているでしょう。しかし、その発想に誤りがあると思われます。すなわち「人間中心主義」「唯物論」「自他断絶の二元論」この根本の発想に、人間は「生命」である、しかも大自然によって生かされる数限りない生命の織りなす「生態系の中の一員」としての、「生命」であるという事実が忘れられています。そしてこのことが恐ろしい結果を将来したものと信じます。
 今一度「生命という事実」「大自然に生かされているとういう事実」「生態系の中の一員という事実」をよくよく認識し直して文明をつくり直さねばなりません。謙虚なつつましやかな、そして大自然と一切の製麺に対する感謝と畏敬に満ちた新しい発想の下に。「公害は科学技術によって克服され得ない。公害を克服するものは宗教である」
 嘗てテレビで放映された米国の一公害学者の声と姿が今も耳にひびき、目に浮かびます。  
【完】

  

 慈光会第2回学習会 環境ホルモン講演
  

日本子孫基金運営委員 三宅 征子




   (一九九八年十月一八日 五條市市民会館での講演を要約したものです。)

環境ホルモンとさまざまな病気との関係

 この「環境ホルモン」は、病気とも密接に関係があります。特に「ホルモン依存性のガン」と言われる、生殖機能の異常な形の様々なガンで、男性であれば、性巣ガン、前立腺ガンとかです。女性で言えば、卵巣ガン、子宮ガン、子宮内膜症、そして乳ガンとかです。そしてさらにアレルギーとか、免疫機能がそこなわれるところから引き起こされる「自己免疫疾患」と言われる病気です。例えば膠原病とかリウマチ、パーキンソン病、クロン病とか原因がはっきりしていなくて治療法も確立していない病気で、こういうものも環境ホルモンの問題に密接につながってると言われております。こういうことを予防するためにも、環境ホルモンをできるだけ避ける、そういう生活態度が求められています。毎日の生活の中で出来るだけ余分な、必要でないものを減らし、生活をシンプルにしてくことが大事だと思います。どういう部分をできるだけ減らしていくかということは、それぞれの家庭の構成されている要因で異なると思いますけれども、できるだけ余分なものは買わない、使わないというような態度を広げていくことが大事だと思います。このようなことが、環境ホルモンなどの問題に対して、私たちが出来る対応の仕方だと思います。食べ物においても、「出来るだけ近い所で出来るだけ安全に作られたものを求める」という努力をしていかないと、私たちだけでなく次の世代、子供たちや孫たちや更にその先の世代の健康と安全を守ることは出来ないと思います。

エピローグ

 わたくしは、有吉佐和子さんの『複合汚染』を大分昔に読ませていただいたのですが、その中で義亮先生のことがご紹介されていたところを、改めて読み返しました。今度復刻版として新たに出されたという『生命の医と生命の農を求めて』という先生のご本も今回読ませていただきました。この中で先生のおっしゃたことと私たちが最初に目指したこの活動とが重なっているということを、改めて確認しまして、これを皆さん方にも是非お話をさせていただこうと思ったわけです。このご本の最後に、「大自然の深い愛情の中にありがたく生きさせてもらい、そしてまた、ありがたく死なせてもらう」という部分がありまして、わたくしは非常に強く感動致しました。そして「これからますます環境破壊による問題がその大きな現実の問題になってきている」ということで、「質素かつ生活物資尊重の生活の重要さを感ずるのである」と先生はまとめられておりますけれど、まさに私たちが日常の生活の中でより本質的な物を見極めていってシンプルな生活を目指すことが求められているのではないか、というふうに感じた次第です。
 今日は環境ホルモンの事を中心にということでしたけれども、少しこれまでの農薬の問題にも触れさせていただきました。まだまだ環境ホルモンの問題というのは、これから様々な事例が発表され、様々な問題が出てくると思われますが、そういった様々な情報を私たちは自分のものにし、自分の生活の中できちんと消化するための「学習」が今求められています。個人で行動できる、あるいは対応できる範囲というのは限られてはいますけれども、一人一人行動がまとまった時には、大変大きな力となって国の政策にも影響を及ぼすことが可能なわけです。そういう意識を持って、私たちは行動をしていかなければいけないのではないかと考えております。私たちもこれからいろいろな問題の調査研究を進めていきたいと思いますが、是非慈光会の皆さま方もさらに今の活動を進められますようにお祈り申し上げます。一応、わたくしの話はここで閉めさせていただきたいと思います。(拍手)
【完】

  

巨勢寺塔跡 国鉄吉野口駅北
  

花野 五壤






looking out of the train window


        《今月は『大和あっちこっち』より花野五壤先生の絵と文を紹介させていただきます。》
 
  国鉄和歌山線上り列車が吉野口駅を出て間もなく、車窓近くに形のよい小堂が目につく。この一画がぽつんと周囲の風物からとり残された様に、小高い岡の上である。
かつて一度このお堂を訪ねたとき、これが千数百年前の巨勢寺の跡かと不思議な感に打たれたことがある。そういえば大きい見事な礎石がお堂の前の土地に全く同じ平面にとけ込んだ様にして、枯れ草から顔を出している。石のまん中の丸い塔心の入る穴の彫刻が全体の石の面と美しい調和を保って実に美しい。
今はその平らな石だけを残して枯れ草が茂っているが、前に来た時は周囲に彼岸花がまっ赤に燃えていた。
しかしこんな所で遠い歴史の感傷にふける気持ちはないが、千数百年前もの昔、堂塔が空にそびえ建ち並び、その上の虚空(こくう)を鳶(とび)が舞っていたのだろうなど勝手な想像はまた楽しいものだ。
この小堂は、時代はそんなに古いものでもなさそうだが、今出来のものにはない形の美しさが感じとれる。どうにもいつわりようのない形の感覚が時代と歴史を物語る。昔の古いものの方が形の美しいのは何故か。
高野山の奥の院への道に立ち並ぶ墓石を見ていつも思う事であるが、それぞれ建立の時代の形。感覚が表れていて古いものほど大らかで、しかも素朴で単純な形の美しさに魅せられる。昭和の碑も次々に出来ているが、表面は顔が写るように磨かれて、角は手が切れる様な見事な出来でありながら、何故か人の心を寄せつけない水くささはどうにもならぬ。きれいさだけでは人の心が住まぬのであろう。
死者の魂があるものとすれば、こんなきれいな碑よりも、もっと素朴で温かい古里のような碑の下に、魂の安住の位置がほしいのではなかろうか。
この堂の前の丸い広い基石こそ心の墳墓のような美しさで周囲に亭々(ていてい)と空に枝をひろげる欅の梢が冬の風にヒュウヒュウと鳴っているのを聞いているとそんな事を誰とはなしにうったえているような気がするのである。

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