死の魔王に勝て  (V)
  


財団法人慈光会 前理事長・医師  梁瀬 義亮



【この文は一九八九年に『死王に勝て』として掲載した文ですが、『死の魔王に勝て』として再掲載させていただきます。】

  
                    

第1章 生死岸頭に立って
 


 永遠の生命への道
 既述の通りのおことわりと四項目の御注意を申し上げ、皆様の御了解をいただいたと信じて(これは是非時々読み返していただきたい)、本論に戻ろう。
   近代医学によって不治だと宣言され、生死岸頭に立たされた方々(私もその一人であるが)に申し上げた上述の自然良能医学は、母なる大自然の愛のエネルギーを十分にいただいて生命力を強化し、思わぬ治癒力を発揮して今のこの大病から逃れようとする努力である。これは大いにやっていただきたい。しかし静かに振り返って見ると、昔から千年生きた人はこの世に一人もいない。誰でも必ず死なねばならぬ。今この病から脱しても五年、十年先には再び同じ生死岸等に立たねばならないのである。母なる大自然の愛の力を以てしてもせいぜい百年くらいまでの命しか我々に与えることができないのである。しかし死ぬのは嫌だ。「永遠の生命」を得たい。これは当然の願いであり生死岸頭に立った今、よけいこの願いは切実である。
   そこで「永遠の生命」について考えよう。これは人生最重大の問題である。まず一つの譬えを申し上げたい。
 一人の旅人が深い山を越えて行った。彼はこの山の地図を信じ、研究し尽くし、その地図によって道を選び進んだ。しかし行けども行けども山は深くなる一方で、予定の村にはいっこうに到着しそうもない。ついに彼は道に迷ってしまったことに気がついた。地図はもう何の役に立たない。夕暮れも近づいてきた。今はもう絶体絶命である。その時ふと人の良さそうな木こりのおじさんがやって来た。木こりは言った。「ああこの道を行ったら駄目だ。深い谷に入ってしまうよ。もう一度戻りなさい。すると分かれ道の所へ来るから、もう一つの道を行きなさい。始めは少し険しいけれど、間もなく楽になり必ず村へ出ますよ。」と。やれ嬉しやと、旅人はこの木こりのおじさんの言葉が果たして本当かどうか分からぬまま絶対それに従うだろう。
 生死岸頭に立った者の立場は、まさにこの旅人のそれである。唯一の頼りであるこの肉体が、己の意志に反してだんだん腐ってゆくのだ。頼りにしていた近代科学に裏打ちされ推進されてきた、この豪華な近代文明の医学の知見も施設もすべて無力で救ってくれないことが今やはっきりした。絶体絶命である。そこへ尊いお方(私の場合、仏陀釈尊である)が現われられて、「この道を行ったら駄目です。永遠の生命への道ではありません。すぐ戻りなさい。そしてもう一つの道を行きなさい。始め少し険しいように見えるけれど本当に楽な道です。そして必ず『永遠の生命の村』に到着しますよ」とおっしゃった。傍らの尊い姿の方々(私の場合、法然上人であり、道元禅師であり、島村外賢先生である)が叫ばれた。「迷った人よ。このお言葉に絶対間違いない。私達はその道を行って『永遠の生命の村』に到達し、今そのことを伝えに戻ってきたのだ。さあ仏陀のお言葉を信じて行きなさい」と。
 今、私は仏陀や祖師の大慈悲の御叫びを心から信じ、その通り歩んでいる。遠く永遠の生命の村の輝きが見えるようだ。生死岸頭に立って、私は体の苦痛はあっても心は平安である。来し方を振り返り、ただ感謝で一杯である。心から皆様の平安と悟りを祈るものである。私は皆様がすべてを放下して仏祖を仰ぎ、信じ行ずれば必ず永遠の生命に目覚め、死の恐怖から逃れられると確信している。しかし私とて、はじめから素直にあっさり信じられた訳では決してない。十一歳の時、死という事実に気づいて衝撃を受けて以来三十年間、文字通り苦悩の求道生活を続け、四十二歳にして初めて大信心を得て生死の問題の解決を得たのである。
 「いわゆる科学的」な生命観、自然観、人生観、世界観等によって幼時より洗脳され続けられてきた影響は極めて深刻で、彼の迷った旅人が即座に木こりのおじさんの言葉を信じたようには素直に仏陀や祖師方の叫びを信じられなかったのである。(二十世紀以降発達した新しい学問「理論物理学や生態学」などと区別したいので、「いわゆる科学」と「いわゆる」をつけたことを御諒承願いたい)
 おそらく皆様も御同様であると思う。皆様のこれから始まる(決して遅すぎはしない)求道の御参考にいささか申し上げたい。
   私の目から見ると、明治以来現在に至るまで仏教界全体が大きくこの誤った影響を 受けていると思われる。「近代思想」や「いわゆる近代科学」の考え方、見方の鋳型にはめ込まれて変形した、したがって正しくない仏教が講演や説教や仏書によって流布されているのは誠に悲しいことである。「人間釈迦」を標榜する書物類や講演の氾濫、南無仏陀を忘れ、帰依三宝を忘れ、まったく人間中心的に鋳直されて外道との区別のつかなくなった禅や浄土教の横行は、真の仏教者にとってまったく目を覆いたい惨状である。 
  (以下、次号に続く)




アトピー治癒の体験談
            慈光会会員 千葉県 田山
 
                      

(この体験談はM.田山さんのお母様からうかがったお話の内容をまとめたものです。)
M.田山さんの場合(1980年生まれ 男性 現在23歳)

 生後3カ月でアトピーと診断されました。皮膚科に診察に連れて行くと 「お母さん、苦労しますよ。」 とお医者様から言われました。
 アトピーが全身に出ていたため、頭用、顔用、体用と、三種類の塗り薬を頂いてぬりました。(ステロイド剤)体中にぬるので、薬が一度で無くなりました。毛根もやられてしましました。
 これではいけない、と思い、それから病院めぐりをしました。ある病院での検査の結果、アレルゲンが6000種類ある、と言われ、食べられるものは「ハトムギ、ライ麦、魚からつくる醤油、タピオカ」といった、ごく限られたものになってしまいました。
 忘れられないのは、幼稚園の参観に行った時のこと、参観のあいだ、ずっと体を掻いていました。毎日、毎日、いつもかきむしっているので、体中血だらけでした。そして、アトピーがかゆくない時は喘息が出ていました。

 小学校2年生の時(1988年)、友人からのご縁で梁瀬先生の診察を受けさせて頂く機会に恵まれました。そこから、梁瀬先生の治療が始まりました。
 まず「栄養失調になっているから何でも食べさせなさい。」とのご指導を受けました。但し、毎日の食事では、農薬、添加物を極力体に入れないよう心がけ、青汁を沢山飲ませるように、との事でした。そこで、野菜、果物、無添加食品等は慈光会から送っていただき、食事に十分の注意を払いました。又、合成洗剤もいけないと教えて頂きましたので、洗剤は、石鹸に切り替えました。梁瀬先生が処方してくださった体質改善剤を一日に4回、朝、昼、晩、寝る前に飲ませました。そのときに乾燥青汁の粉末も一緒に飲ませました。(生の青汁が作れなかったため)
 梁瀬先生が処方して作ってくださった塗り薬が大変よく効き、とても助けられました。漢方薬の是非をお尋ねしたところ、今の漢方薬は農薬で栽培している場合があるので、気をつけるように、と教えて頂きました。

 又、子供に運動するよう、お勧め下さいましたで、テニスをさせました。子供は、裏表が分からなくなるくらい日に焼け、テニスに励みました。
   このように食事と運動に注意をしつつ、梁瀬先生の体質改善剤、青汁粉末を飲ませ続けたところ、7年位かかりましたが、完治しました。
 中学生のころですが、インフルエンザが猛威を奮い、学級閉鎖になってしまったときでも、一人、大変元気でピンピンしていました。
 大きくなってからですが、コンビニなどで添加物の沢山入ったものを買って食べると、すぐ体の柔らかい所に湿疹が出来るので、それが良い食生活をしているかどうかのバロメーターになった程です。
 (M.田山さんは現在東京で就職し、すっかりお元気になっておられます。)  




櫛羅の滝 御所市

花野五壌
 
 

《今月は『大和あっちこっち』より花野五壌先生の絵と文を紹介させていただきます》

葛城山上へロープウエーでもう着いたのかと思う位の時間で山上に着く。高い山上へ来た気持ちがしない。しかし途中で耳がツーンとなっていやおうなしにその高さを知らせてくれる。急に涼しい。下界を見おろし、隣の金剛山を見上げ山頂で写生をして下山は山中の山道を歩く。下へ下への急坂を下る。登るときには感じなかった高さの実感が今度は自分の足がおしえてくれる。道は静かで山気がさわやか、山の空気はうまい。セミがなく。どんなセミかその声は何かの機会の部品がはずれているような妙な音である。麓に近くぼつぼつ汗ばんで来る時耳にひびく水の音に滝の近い事を思いながら下っていくと行者滝につく。水は冷たく霧は涼しい。なお降りると櫛羅の滝である。雨の少ないためか水量は少ないが岩組はやっぱり美しい。木の葉の重なるうす暗い岩壁から落下する透明な水の太い筋。途中の岩頭に当たって飛散する水の放射状の光。ぬれた岩膚の様々な色、スケッチしながらつくづく思う。岩のむずかしさである。この形の変化とガリガリしながらお互いがしっかりとかみ合った岩膚の表現はお手あげである。こんなときに心に浮かぶのは中国の古画や日本の文人画の水墨による山水画の技法である。雪舟の絵の岩膚、岩の組み合わせ、宋元の大家の水墨画等全く自然以上の高い表現で水の落下の形がそのまま神々しいまでの深い精神を称えている。 山を出ると下界は急に暑く、今度は自分の背筋に汗の滝。                

                                                                                          




農場便り 8月 
 
 


 道には壮大なロマンがある。地球上に道は縦横無尽に走る。その中、特に有名なのがシルクロードである。西はローマ、東は奈良へと続き、太古の人々は夢を抱き旅をした。雄大かつ荘厳な風景はテレビ番組などで特集され目が釘付けになったことは記憶に新しい。
 『道』は歌詞の中にもよく使われている。それらの歌の中、何か一曲をと言われると口に出るのがジョン・デンバーの「カントリーロード」である。大自然を彼の素晴らしい感性で歌い上げている。20数年前には走るとモクモクと土煙の上がった慈光会の農場までの凸凹道はパイロット開発と同時に舗装道と化した。毎日通う私にとっては快適な通勤道となった。が、それも農場の入り口まで。農場のゲートを一歩くぐると純粋なカントリーロードとなる。農園内には仕事の利便性を見据え何本かの農道が整備されている。ゲートより左に登ると果樹園に、直進すると蔬菜園へと続く。無農薬無化学肥料による栽培は地力によって決まる。力のある土は主に好気性完熟堆肥によって作られる。慈光会も堆肥場で作られた完熟堆肥をほ場に持ち込む。2tダンプに山積みされた堆肥は大変な重量である。それを一日何往復もし、運び込む。20年間酷使された農道はづたづたに傷つき悲鳴を上げる。雨の日もお構いなしに通るものだから、あちらこちらにくぼみが出来る。ついに園内道はラリーコースのようになってしまい、うっかりスピードを出そうものなら天井まで跳ね上がってしまう。ここ10年あまり我慢に我慢を重ね通り続けたが、いよいよ限界を感じ「舗装をするしかない」と決心し計画を立てる。舗装距離約200m。明日からは鍬をつるはしに持ち替え、土木作業に職種を変える。よろずや家業である。パワーショベルで整地をし、クラッシャー(砂利)を敷く。転圧機で地表を固め、枠組みをし、金網を敷き、最後にコンクリートを流し込みこてで仕上げていく。見る見るうちに凸凹道はドイツのアウトバーンのように(?)姿を変えていく。4〜5日して型枠を外す。(開通のテープカットはなし)
 早速新しい道を通って堆肥を運び込む。秋きゅうりの準備である。毎年お盆前後で夏きゅうりが姿を消すため、3年前より試作し本年から本格的に作付け450本を定植した。6月下旬、幼苗が長雨に叩かれ夜間の気温の低下と共に地温も下がり、葉の色が日増しに薄くさめていく。ここ最近(7月中旬)温度が上がり、何とか持ち直しつつある。
 【秋きゅうり】この地域ではきゅうり栽培は春・夏・秋作が行われているが、春作は化石燃料を使用するため、当会では行っていない。秋作は適した品種を選び6月中旬から7月中旬にかけてトレーやポットに播種、播種時期が遅くなれば収穫量にも影響する。本葉2枚で定植、この時期を逃さないのが良作のポイントである。きゅうりはなすと同じく肥料、水共にとても大食いであり、不足することを極力避ける。特に秋きゅうりは土用の厳しい環境には敷き藁などで保護する。大変ではあるがこまめな管理により秋風が吹き、虫の音が聞かれる頃まで収穫ができる。『秋なす嫁に食わすな』というが秋きゅうりはどんどん食していただきたい。
 農作業は額から滝のように汗が流れる。先日「いい汗をかく」という言葉を耳にした。この言葉の意味は単に体を動かし、健康のために汗をかくというのではなく、人や社会のために尽力し汗を流す、これが本来の意味だそうである。日頃の行動を大いに反省し、いい汗を流すよう努力したいものだ。
 話は前に戻るが、園内道を舗装することにより私共は幸せを感じるが、迷惑をこうむっているものもいる。舗装道の上を右に左にせわしなく動き回る無数の蟻である。彼らは地道の方が歩き易いのだろう。こちらをじっと見、何か苦言を発しているように私の目には映る。一言「ごめん」と言いたい気持ちである。広域農道と同じく林道もまた多く作られている。関西の屋根と言われる紀伊半島を南北に走る大嶺山系、その自然環境は世界中の学者から注目されている。この山系にも人の手が入り、林道がいたる所に作られている。経済性だけを重視し、自然環境は無視状態である。近くには世界有数の降雨量をもつ大台ケ原もある。大雨の度大量の土砂が流出し、美しい沢に流れ込む。林道もほとんど利用されること無く廃道になっている所も数多く、無残な姿が後に残されている。手遅れかもしれない。しかし諦め捨て去るわけにはいかない。人々の正しい世界観により悲惨な山々がもとの美しい姿に返ることを願う。その時、物質ではない目に見えない素晴らしいプレゼントが大自然より届けられるだろう。
         

   ひぐらしの涼しげな羽音が聞かれる盛夏の農場より