死の魔王に勝て  (VIII)
  


財団法人慈光会 前理事長・医師  梁瀬 義亮



【この文は一九八九年に『死王に勝て』として掲載した文ですが、『死の魔王に勝て』として再掲載させていただきます。】

  
                    

第2章 科学観を正す
 

◇「いわゆる科学」過信を反省する
   日本における「いわゆる科学」過信の風潮生起の経緯を申し上げよう。
   「いわゆる科学」を正しく理解せず、その生命観や世界観を唯一無二の真実のものと洗脳されたままの状態では、絶対帰依への道は完全に鎖されているのである。上述の譬えの深山で道に迷った旅人が相変らず地図のみを信じていては、木こりのおじさんの忠告は耳に入らないように。 
   明治政府の教育の主眼は国家意識の昂揚と富国(経済発展)と強兵(軍国主義)であった。これは当時としては当然のことであったろうが、今にして思えばその方法が拙かったと反省せしめられるのである。国家意識昂揚のため国家神道を制定し、それによって国民を洗脳して「日本神国」、「天皇神格」の信仰を国民に徹底しようとした。また当時の「いわゆる科学」教育を徹底して科学技術を習得せしめ、富国強兵に役立たしめようとした。それは同時に国民をして「いわゆる科学」を唯一無二の真理と信ぜしめ、唯物論的な「いわゆる科学」的生命観や世界観、人生観を唯一の真実のものと信ぜしめる結果となり、国家神道以外の宗教を排除するに役立ったのである。
   国家神道以外の宗教に対しては国体に反しない(国家神道に反しない)範囲においてその宗教を許したが、明治中期まではかなり露骨な宗教弾圧政策が取られた(廃仏毀釈―仏教排撃―運動や天理教弾圧等がそれである)。その後やや緩和されたが、昭和初期以降軍国主義が盛んになるにつれて再び制約は厳しくなった。「大本教」や「人の道教」の弾圧は苛酷なものであった。私達大正末期より昭和初期にかけて教育を受けた者は、この明治教育の徹底ぶりを今もありありと思い出すのである。
   国民の宗教観念は次第に変わり、宗教自身も国策に沿って変形し堕落するものが多く、あるいは哲学の亜流となり、あるいは単なる学問になり、あるいは政策に添った倫理道徳になり、あるいは情緒的気休めや世渡り術などになった。
   「宗教などというものは非科学的で、科学を知らぬ昔の人の気休めや教化の嘘方便にすぎない。日本人たるものただ桜の如くパッと咲き、お国のためにパッと散って消えてしまう。それだけでよいのだ。それが日本人たる所以だ。」
   こういう考え方と、当時の「いわゆる科学」に対する過信(過は「過ぎる」と「過った」との両意である)が妙にからみ合って国民の頭脳を支配した。この国民の洗脳が徹底すると共に、侵略戦争というあの悲しい日本の暴走が起こったことは周知の事実である。
   敗戦によって国家神道の進行は没落したが、国民の宗教的情操は原始人的、いやそれ以下の状態のまま取り残された。残ったのは科学技術と「いわゆる科学」的と言われる唯物論的な浅はかな生命観や人生観、世界観に対する信仰のみである。それは国民を浅薄な現実主義、快楽主義、肉欲主義に走らせ、空しい拝金主義者になるまでにその徳を失わせてしまった。経済的には一見発展したかの如く見えるが、最も大切な国土とその自然を荒廃させていまい、同胞愛や祖国に対する真の愛を失い、世界中の人々に愛されず、嫌われ恐れられるようになってしまったのである。ECONOMIC ANIMAL(金しか知らぬ犬畜生)と外国人に謗られたことは誠に遺憾であるが、現実である。
  *「いわゆる科学」の出現
    永い間、中世のヨーロッパの思想は、すべてキリスト教の教義の支配下にあった。キリスト教の教義の下に、永らくヨーロッパの人々は満足して生きてきたが、十三世紀末より十五世紀末にかけて新しい思想の流れがイタリアを中心にして起こり、やがて全ヨーロッパに広がっていった。
   それは昔のギリシャやローマの時代の人々のように、自由に、(キリスト教の教義を離れて)人間が自然や人間社会を観察し、認識し、感じ、考え、行動しようというもので、はじめは美術や文学、学問からはじまって、次第に政治や宗教にも及んできた。いわゆるルネッサンスである。
   十七世紀になってさらに極端化した学問が現われた。それが「いわゆる科学」である。
   イエス・キリストと少数の聖者のみが実体験された事実、(Godや天国やその他のさまざまな宗教的事実や倫理法則など)を「信ずること」を基本として成立する世界観や人生観、生命観や宇宙観、あるいは行動の原理等々がキリスト教である。しかし、十七世紀以降キリスト教とまったく異なったことを基本とし原理としたものの考え方、観方が現われ、一つの学問になった。これが「いわゆる科学」である。
   まず「人間が生きてここにある」ということ、そして「人間の周りに、人間と独立無関係に実在する一つの世界がある」ということを基本的事実(当たり前のこと)とする。(したがって、「人間がなぜあるか」、「世界がなぜあるか」などははじめから問題にしないことにする)そして人間が五感を通じて認識できるもの、(しかもそれは少数の人だけではなくて、万人が認識できるもの)だけを事実と認める。 
   こういう定義の下で、人間が周りの世界を観察してさまざまな事実とその事実を支配する法則を知った。この法則を集めたのが、「いわゆる科学」という学問である。以上で分かるように「いわゆる科学」は、はじめから「人間を超えた叡智や能力(神)を否定して、人間を至上と決め、上述の「第一の心」で唯物論的に周りの世界を観察した時に見られる事象を対象とした一つの学問であり、それは三次元の世界の法則を追求する学問である。さらにまたこの学問で解明できるのは事象や法則が、「如何にあるか」(how)であって「何故あるか」(why)ではないことも知らねばならない。また「生命」は、万人がその実在を直観する一つの厳然たる事実であるが、この学問によっては、その物質的な一面の一部のみが、しかも「如何にあるか」のみが解明されるだけであって、その本体については論ずることも知ることもできない。またGod(神)とか他界とか、人間の生前、死後の問題等々ははじめからこの学問の研究の対象外のものであるから、「いわゆる科学」や「いわゆる科学的方法」でこれらを論じても、それはまったく無意味であることを充分承知されたい。
   十八世紀、十九世紀に行なわれた科学とキリスト教の熾烈な論戦はそれゆえナンセンスであったと考えられる。     (以下、次号に続く)



健康な毎日を送るために
  



 慈光会の前理事長(梁瀬義亮)は医師としての立場から、健康維持のための生活習慣を具体的に提案していました。今月はその内容を以下にご紹介してみましょう。もう一度生活の足元を見直す機会として頂ければ幸いです。(「慈光通信56号」及び「死の魔王に勝て」より要約)
  *食生活の注意(きれいな血にするために)
  麦飯(またはくろいご飯)を食べ、肉類や白砂糖を少なくし、魚・卵は適度にとり(魚は薬漬けの養殖魚は避けます。)大豆・野菜・海藻を良く噛んで多く食べる事が大切です。その際農産物にはくれぐれも農薬、化学肥料が使われていないものを。又、加工品は添加物が使用されていないものを選んで下さい。油は植物油を適当に、果物は良いが野菜の代わりにはなりません。タバコは一日10本迄とし、お酒も一日一合以内、ビールは中瓶一本以内とします。(できれば止めるのが望ましい。アルコールは神経毒です。又、タバコもできるだけ止めるようにしましょう。癌になるリスクが何倍も高くなる事が医学的に明らかになっています。)
  *正しい呼吸
   いくら食生活を正しても、呼吸を正すことを忘れては駄目です。このことは案外等閑(なおざり)にされています。時々意識して、深呼吸をする事が大切です。
   深呼吸の仕方:まず十分に息を吐き切ってから、さらに最後の息を出しつくし、次いで、すーっと空気を下腹へ吸い込みます。十分吸ってから息を吸い込んだままちょっと息を止めて、それからまた十分に吐き出します。空気の清浄な朝や戸外等で行うとさらに効果的です。
   尚、普通の石油ストーブやファンヒーターは空気を汚染するので換気をよくすること。30分ないし1時間に一回は換気します。エアコンやクリーンヒーターも空気が乾燥し生気を失うので、換気と加湿を忘れないように注意する必要があります。
   上述のような深呼吸によって血液が浄化されます。
   血液浄化、これが保健にも病気治癒にも最も大切なことです。(食事に注意することは血液浄化の為です。)
  *血液の循環をよくすること
   血液がたとえきれいでも循環がうまく行われないと、局所に鬱血を起こしてその部分で血が濁ってしまい、さまざまな故障を起こします。血液の循環をよくするのは、全身の運動、ことに歩行運動がよいのです。歩行運動は各人の体力によってそのスピード、距離が決まるのですが、一般に言って、サッサと歩くことが大切でブラブラはよくありません。
  掌(てのひら)によるマッサージは大変よく四肢を心臓に向かってしっかり摩(さす)るのはとてもよい事です。(足裏、足背、足指、手のひら、手背、手指は特に大切。末端部は毛細管が多いのでここを特にしっかり揉むと全身の血の循環が良くなります。詳しくは「死の魔王に勝て」21頁以降参照)
   人に脊柱の左右2センチぐらいの処を親指で気持ち良いくらいの圧力で押してもらうのも良いことです。(この際、無理は禁物)
  *食生活の注意についての付記:自殺、傷害、自閉症、イジメなどの異常な青少年の精神症状や、肝臓や腎臓疾患、癌、白血病等々の多発は、誤った食生活や農薬、食品添加物の摂取と大いに関係ありと思われます。)
                
 以上前理事長の医師としての所見

 
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   長寿の研究をした他の著書にも前理事長と共通の所見が述べられています。
   一つ特徴的な事として、世界の長寿地域の共通項に「腹八分目」というのがあります。どんなよい食べ物でも食べ過ぎは禁物という事です。よく噛んで腹八分目、七分目で止めておくことが重要と記されています。(参考文献「長寿の法則十ヵ条(死ぬまで元気に食べ方革命)」京都大学大学院教授 家森幸雄著 海竜社刊)  飽食の時代と言われて久しい現代日本社会。おなか一杯食べることが健康に悪いと思っている人はあまりいないことでしょう。まして、腹八分目を実行している人は極少数と考えられます。そういえば、昔から「腹八分目に病なし」と言われているのは有名な事ですね。前理事長も日頃「腹八分目」とよく申していたそうです。世界の長寿地域の共通項である「腹八分目」も是非実践なさってみて下さい。
 




農場便り 2月
  




 
   大寒も過ぎ、立春を迎えようとしている。が、冬はまだどっかりと居座っている。農場から見る金剛の山脈は、白く雪化粧をする日がまだ続き、吹き降ろす風は冷たく身を切られるようである。その中、庭先では山茶花、寒椿、ろう梅が寒風にさらされながらも清楚な花を咲かせている。その姿、まさに茶花にふさわしいたたずまいである。
   当会の新年の作業は大掃除から始まる。年末はお客様の出入りやお正月用品で足の踏み場もなくなるくらいごった返す。そこで、年が明けてから一気に昨年一年間の垢を落とすことになる。女性職員は店舗と作業所を、農場の男性2名はそこにいるのが邪魔となり、毎年恒例の旧販売所の掃除にと休み明けの重い足を引きずりながら向かう。
   旧販売所は当会設立時より約15年間フル稼働し、多くの人が訪れた。狭い店舗には所狭しと商品が並び、アットホームな空間があった。今でもここに来るたびに懐かしい気持ちになる。旧販売所の前は神社があり、こんもりした鎮守の森になっている。11月頃より紅葉し、12月に入ると落葉が始まる。ムクの木やその他多種の雑木が一斉に周りの空き地や路上に赤や黄色のじゅうたんを敷きつめるように葉を落とす。その葉や小枝の量は半端ではない。年内は地上部だけを何度となく掃き集める。年が明けすべての葉が落ちてしまうと、今度は屋根の上の葉を掃き落とす。それが年初めの作業となる。
   二階の窓より屋根に出る。はしごを使い大屋根に。道路へと屋根一杯に積もった落ち葉を掃き落とし、樋(とい)の詰りもすべて取り去る。正月休みのだれた気持ちが高所に上ることにより、ピーンと張り詰める。
   場所が町の中なので掃き集めた落ち葉はすべて処分するが、自然の森や山ではこれらの葉や小枝は、地上に堆積し表土を覆い腐葉土と化す。何億ものバクテリアが有機質を分解し、山や森を肥沃にし、生物を養い育てる。表土に蓄積した腐葉土へとしみ込んだ雨水は、栄養豊富な生きた水へと変身し大自然を育てる。山に降った雨は一気に流れ落ちることなく、ゆっくり時間をかけ里へと流れてゆく。優しい母親のように、谷川から小川、小川から大河へと何万という種の生物を育てながら大海へ。海洋生物も又、山の自然林により育てられる。
   慈光会の田畑に入れる堆肥もまた、この腐葉土が出来上がる過程と同様の自然の摂理を守り、人の手によって時間を短縮して作り出されている。土を肥沃に作物が健康に育つようにと昔の人々の叡智が集結した、まさに理にかなった手法である。私達はその恩恵をこうむり、美味で栄養価の高い作物を口にすることが出来る。常々前理事長が口にしていたのは、農作物の8割はお天道様(自然)が、人の力でさせて頂けるのは後の2割。人間至上という考え方を反省し謙虚な心を持つようにと。
   話はそれるが、毎年この時期には春、夏作の作付け計画を行う。この一年、会員の皆様に喜んでいただける野菜作りを目指し、各自気合を入れる。冬の農場は果樹の剪定、寒肥入れ、寒起こしと作業が目白押し。特に剪定作業は寒風にさらされながらのため、体が凍える。長靴の中では指先の感覚がなくなることがある。そんな中でもほっと心温まる風景に出会うことがある。昼の3時を過ぎた頃、辺りの空気が変わり、セピア色の光が周りの風景を包む。一筋の光が雲間より一点を射す。この情景をキリスト教を信仰する西洋諸国では「天使の階段」と言うのだそうだ。光の階段より天使が地上に降り立つ。人々の平和と幸せを願って。しかし現代社会はいかがなものだろうか。飢える民は年と共に増え、血を血で洗う戦いが日々繰り広げられている。間違って悪魔が階段を下りてきたのだろうか。
   さて、大掃除の日の夕方も近づき、集められた落ち葉につけた火もほとんど消え後に灰だけが残る。時折吹く風に残り少ない火種が赤く燃える。道沿いに祭られたお地蔵様の周りも美しくなった。通りすがりのご老人が軽く会釈し、お地蔵様に手を合わせる。美しい光景である。この時期の夕方は物悲しさが漂う。夕刻も近づき店へと戻る。きれいに磨きこまれたガラスに夕日が輝き、オレンジ色に染まる。室内も美しく掃除され商品がきれいに並んでいる。
   また、これからの一年間、会員の皆様の健康を願い、自らも納得できる一年であることを願い初日の仕事を終える。外は既に夕闇に包まれ、冷たい風が吹く。
   「いるほどに 風が持てくる おちばかな」
   この句が頭に浮かび帰途につく。