財団法人慈光会 前理事長・医師 梁瀬 義亮
【この文は一九八九年に『死王に勝て』として掲載した文ですが、『死の魔王に勝て』として再掲載させていただきます。】
第2章 科学観を正す
*「いわゆる科学」の暴走
十八世紀、十九世紀において「いわゆる科学」的方法によって物理学と化学が発達しさまざまな法則が発見された。ときあたかも十八世紀末より十九世紀半ばにかけて、さまざまな機械の発明時代を迎えたが、その時これらの法則の知識が発明と結びついて大いに役立った。イギリスを中心に、工業が発達していわゆる産業革命が起こり、次第に全ヨーロッパに広がっていった。生産の方法、規模が一変して大きくなり、これにしたがって生活も便利かつ贅沢(ぜいたく)になった。武器も精巧になり大量に生産されて、これによってヨーロッパの国々は、アフリカやアジアを武力で征服し、これを植民地として富を奪い、ヨーロッパの富は非常に増大した。人々はいまさらながら機械力に驚嘆し、圧倒された。
古典的物理学と化学は、「いわゆる科学」の代表となって種々の学問の基本となり、またその考え方や研究方法は他の学問の分野でも最重要視されるようになった。すべての学問が「いわゆる科学」的になったのである。
教育においても、「いわゆる科学」および「いわゆる科学」的観方(みかた)や考え方が最重要の地位を占めるに至り、いつの間にか「いわゆる科学的」すなわち「真実の」、「非いわゆる科学的」すなわち「非真実の」と考える風潮が起こり、それが次第に広がってついに「いわゆる科学」的方法で生命の関与する分野まで「解決しよう」、「解決できる」との錯覚が起こった。人々は、「いわゆる科学的」な、したがって唯物論的、人間中心的な世界観、生命観、自然観、宇宙観などが唯一無二の真実なものであるとの誤った信仰によって洗脳され、ここに「いわゆる科学」の恐るべき暴走が起こったのである。この暴走した「いわゆる科学」に指導推進された近代文明に人々は、バラ色の未来を夢み、桃源郷の出現を固く信じていたのである。
しかし、この文明が今や完成に近づくにつれて当然のことながらそれは桃源郷ではなくて、恐ろしい人類破滅の「死の文明」であることの、形相を明らかにしてきたのである。今や心ある人々は驚愕(きょうがく)と恐怖の極にある。医学、農学、教育学、政治学、経済学等々いずれも学問(いわゆる科学)としては大いに進歩し、さまざまな学術用施設も贅沢に完備した。しかしそれは、学問(いわゆる科学)としての進歩だけであって、実際に「生命」や「心」が大きく働いている現実社会の各分野においては、それら学問は成果を上げることができないのみか、恐るべき破滅をもたらしたのである。
医学の素晴らしい学問的進歩にもかかわらず、それは救急医学的に優れているのみに止まり、医学の最大目的たる病気克服にはほど遠いものである。すなわち病気は一部影をひそめたが、それより遥か数多い難病奇病が続々と現れ、また病人の数は増える一方で、一億総半病人とかいわれ、人々は病に恐々としている現状である。
現代医学に対して、「造病医学」とか「病気を治して病人をつくる」とかの批判が聞かれ、他方漢方医学ブームが起こり、果ては病気治しの新興宗教の大繁盛も現実に起こっている。今のやり方では、医学は病気を克服できず、ただ追いかけごっこをしているのみである。そして結局負けるのである。
農学も「学」としては大いに進歩した。しかし農作物は病害虫でますますできにくくなり、形ばかりで、その食物としての品質、(味、香り、健康への有効性)は低下し、農家の経済は逼迫して、人々をして「農学栄えて農業滅ぶ」の嘆きを発せしめている。また農地は荒廃し、世界的な飢餓が憂えられている現状である。
教育学の進歩、施設の完備にもかかわらず、不良青少年、問題児、果ては集団学校暴力、いじめ、自殺等々が多発し大きな問題を投げかけている。
政治も経済も同様に、「学」としては進歩しても、現実の社会においていっこうに効を現わしていないのみか、ますます混沌の度を加えつつある。
独(ひと)り工業においては、「学」の進歩がそのまま現実に成果を現わして素晴らしい機械が現れて工業は栄え、燦然(さんぜん)たる機械文明が出現し、人々は便利と快適を謳歌(おうか)するかにみえる。しかし、よく見ると奇妙なことが起こっている。たしかに機械や薬品を造るところまでは大成功であった。しかし、人間の「生命」や「心」が大きく作用している人間社会において果たしてこの機械化社会が実際に所期の目的たる便利、快適を提供しているであろうか。便利とは人間が生活に時間的、精神的に余裕があり、ゆったりすることである。しかし現実には機械化により目先的に一時的には便利になったかに見えても、実際はだんだん世の中が忙しくなり時間的にも精神的にも余裕が無くなってしまって、まるで人間が機械や金に追い廻されているかの如き現状である。しかも工業の発達によってもたらされた目先だけの一時的な快適のつけは、結局は生命の源泉である大気、水、その他、自然環境の汚染と破壊となって現われ、不快を通りこして人類の生命の危機を招来したことは見られる通りである。工学も機械製造までの技術的方面では成功していても、結果的には実際の社会において大失敗をしているのである。
一日一日と人類は地球環境破壊と公害を伴うこの文明によって、滅亡の淵へと近づきつつある。この恐るべき現状の前に、愛する子孫を思って我らは立ち上がらねばならない。ただし、ただ叫ぶだけでは駄目である。「暴走した『いわゆる科学』」によってこの文明が指導され、推進されたがゆえのこの破壊であることを知ってまず「いわゆる科学」に対する正しい認識を持ち、その過信から脱しなければならないのである。現在、社会の指導者層にこの恐るべき事態とそれをもたらした原因に対する理解と認識が少ないように思われる。誠に遺憾であり危険である。
春の景色が一日に幾度となく目に飛び込んで来る。生物のエネルギーは全開で初夏に向け活動する。
当会の販売所にも遅れじと春がやって来ている。中でも香り高き苺は春の代名詞、多くの人々に愛されている。甘酸っぱい香りと味の苺の花言葉は「幸福な家庭」、「尊重と愛情」。春をそのまま小さな赤い粒に閉じ込めたような食べ物である。
1月下旬、寒風吹きさらす中、協力農家の川岸さん宅を訪れた。当会協力農家歴30余年、当会では2番目に長い実績を誇る。(ちなみに1番は当会の長老、西尾喬さんご夫婦である。本年83歳、今だ現役で田畑を耕しておられる。)
さて、その川岸さんの自宅前の畑には、大型ハウスが数棟建てられている。大寒の風に震えつつ一歩中に入ると、そこは春の空間が広がる。30mはあろう長い畝には、ところ狭しと苺苗が植えられ、かわいい白い花が数輪咲き、株元には小さな実がついている。
苺は、植物学的には野菜に分類され、バラ科、苺属。明治初期にフランス、イギリス、アメリカより日本に伝わる。栄養素は、食物繊維が豊富で整腸作用があり、便秘解消に貢献する。またペクチン、カリウムが多く含まれ血圧降下や利尿作用もある。もっとありがたいことに、血液を清める果物と言われ、ビタミンの多さはトップクラスである。「良薬、口に苦し」というのはこれには当てはまらないようである。わが国の生産量は、アメリカ、スペインに次ぐ世界第3位である。 「とよのか、女峰」は2大品種、当会では「女峰」を中心に栽培している。近代農法では、苺の露地栽培はリスクが多いためほとんどがハウス栽培であるが、川岸農園では一部露地栽培もされている。
9月に苗の植え付けをするが、この苗は前作の親株より伸びたつる状の軸の先についた子株(ランナー)をひと夏かけて育てた自作苗である。定植前に堆肥などの有機肥料によりしっかり土作りをする。 12月にはハウスにビニールがかけられ、ハウス内の温度を維持する。(当会では、石油などの燃料による加温は行っていない。)さらに又寒さも厳しくなって来た頃、苺の苗にもう一重のトンネルがかけられ寒さから苗を守る。毎朝トンネルのビニールを外し陽光を十分に当て、夕方には温度を下げないようにとビニールをかけて回る。この作業を毎日繰り返す。とても大変な作業であることがお解かりいただけたと思う。「川岸さんに感謝。」
突如現れた「アスカルビー」、昨年試作したが、病害虫に弱く、溢れんばかりの強靭な生命力を必要とする無農薬栽培には向かないように思われた。
現在、近代農法による苺は四季を問わず年中販売されている。輸送性を優先し、痛みや日持ちを良くするため、殺菌剤など多くの種類の農薬が使用され、アメリカをはじめ世界中より輸入されている。子供達が大好きなショートケーキを飾る真っ赤な苺も例外ではない。安心して口いっぱいにほうばる事のできる日が来ることを心より願っている。
春光は日増しに輝きを増してゆく。農場ではうぐいすが美声を競いあっている。昨年孵化し無事冬を越した若輩うぐいすも先輩うぐいすに負けじと声を張上げて鳴く。時々谷渡りを試みるが、ぎこちないその声が途中でつまり、谷底へと消えてしまう。これからの一年しっかり学習し、来春には美しい鳴き声で谷渡りが聞けることを期待する。
春、日一日と農作業は多忙となる。先日おじゃました時、帰り際に「気をつけて帰ってくださいよ。」と温かい声で送って下さった川岸さん御夫妻の姿が頭の中をよぎる。そのにこやかな顔や手には、慈光会と共に歩んで来られた年輪がしわとなって刻まれている。その尊さを感じ、穏やかな顔が真っ赤に熟れた美しい苺と重なって映った春の一日であった。美しいうぐいすのさえずりがまた農場にこだまし、響き渡る。
春風に草花が揺れる農場より