慈光通信133号 (2004年10月)
自然と生命をとりもどすために I 前理事長・医師 梁瀬義亮
【この原稿は、昭和五〇年(一九七五年)六月二九日高松市民会館で行われた梁瀬義亮前理事長の講演録です。】
健康と食物・食物と農法・農法と心
ただいまご紹介いただきました奈良県五條市に住みます梁瀬でございます。 つたない私の経験でございますが、どうぞお聞き取りいただきまして、 それで現在の窮状をよくご理解いただき、そして皆様御自身のために、そして後から来る若い人達のために、どうぞ必死の御努力をお願いしたいのでご ざいます。第二のノアの洪水
昭和34年、私は農薬の害が大変恐ろしいことになって日本を被うんだと申しました。当時はまだ、そういうことがあまり理解されなかったものですか ら、非常に迫害を受けたんですが、その時私の町の方々が、「健康を守る会」という名のもとに、いろいろと御協力下さいました。その発会式の時に私は こういうことを申し上げたのでございます。 「第二のノアの洪水が十年先に必ず起こってくる。第一のノアの洪水は水の洪水であった。そのノアの洪 水という話は御存知かと思いますが、キリスト教の旧約聖書の中にあるお話で、神様が大変信仰厚いノアに、『大水を起こしてもう邪悪になった人間を いっぺん整理しなければならないからあなたは大きな舟を作って待っておれ。そして信仰深いお前達一家は、それで助かって将来また繁栄してくれ』と いうお告げをしたのです。ノアはそのお告げの通りに大きな舟を作って待っておった。人々はそういうことを信じなくて、あざ笑っておった。すると大 水がやってきて皆は沈んでしまったけれども、ノア一家は助かった、というお話なんですが、第一の水の洪水の次に、第二のノアの洪水が日本にやって くる。それは毒の洪水である。それが世界中でまず日本に現れてくる…」と。そして今やもう、第二のノアの洪水が私達の日本をおそってきたのでござ います。 現在私達の身体にどれほど毒が入っているか、世界の人達が驚きと恐れをもって見ておるわけでありまして、私達の愛する祖国が、世界の、 そして近代社会の一番悪い結果を示す実験所になってしまったわけなんです。 皆様ご存知かと思いますが、東京オリンピックの時に、西独と日本、同 じ工業国で栄え、復興してきた国の代表選手をとって、頭の毛の中の水銀を調べてみたんです。そうしますと西独の選手の毛の中の水銀量の平均が 0.1ppmでございました。日本のそれは驚くなかれ6.5ppmで65倍の水銀を持っておったわけなんです。この水銀量は今でもまだ減らずにおるということが 最近発表されております。 また、最近私の友人でその分野の専門の方がデータを下さったのですが、BHCはやかましくなって使用禁止になったから 皆さんはもう大丈夫だと思っていらっしゃるでしょうが、BHCの日本人の体内の含有量はアメリカ人の四〇倍にもなるそうです。まさに恐るべき時代 でございまして、早く何とかしなければならないのです。 で、こうやって身の程も顧みずおじゃまさせてもらったのは、この実状を申し上げて、そし て約一五〜六年程やってまいりました自然医学、そして農法、それから正しい流通機構の運動、このようなことをいろいろと申し上げて、この四国・高 松の地におきまして、私達がやってきたことを御参考に日本民族が救われる新しい運動が起こっていただきたいと念願してやまない次第でございます。 (以下、次号に続く)
どんな原発も危険です 一刻も早く脱原発社会の実現を
また、原発の事故が起きてしまいました。福井県美浜原発3号機。貴い命も失われました。
I.あわやスリーマイル島の二の舞い?
原発を安全に運転するには、炉心で発生した膨大な熱(約2600℃に制御されている)を下げるため、冷却能力を持つシステムの維持が最も重要で すが、今回はその冷却システムの一部が破裂してしまう事故でした。 有名な米スリーマイル島原発事故は、今回と同じ状況から、次々と連鎖して冷却 装置が壊れ、炉心の熔融(冷却水が届かなくなって炉心を冷やす事が出来ず、炉がみずから発生させた熱によって溶けてしまう事)に至り、大規模な放 射能放出が起こりました。当局の発表では炉心の温度は2820℃に達していました。その意味では今回の美浜原発事故は一歩間違えば、炉心熔融に至 る可能性も十分にあった訳です。現に事故直後、3台ある補助給水ポンプのうち、2台までが出口流量調整弁の開放に失敗しています。この事実は、問 題が配管の不良だけに止まらず、ポンプにも保守不良のある可能性を示しています。(「原子力資料情報室」ホームページ参照) もしも炉心熔融が起 こっていたら、近畿、山陰、北陸、中部一円が見えない死の波にすっぽり飲まれてしまっていた事でしょう。「原発から百キロ圏に全ての主要都市が位 置する日本で炉心熔融が起これば、被害はチェルノブイリの比ではない」と工学博士の中川保雄氏は言っておられます。 美浜原発の事故の内容を良く 知って、スリーマイル島やチェルノブイリの事故が対岸の火事ではないことを私たちは肝に銘じておきましょう。
II.何故事故が起きるのでしょうか?
原発事故が起きるたび電力会社は「想定外のことだった」という弁明をします。今回の事故は「最初から検査リストに入っていおらず、知り得ること ができなかった」「チェックする仕組みがなかった。」(関電藤社長)結果です。事故が起きた箇所は実に28年間無点検であり、本来肉厚10mmであ るべきところが1.4mmになっていた、といいます。さらに事故を起こした3号機には60カ所にも及ぶ検査漏れの可能性があり、他の原発4基にも検査 漏れがある事が発表されました。「発電所は配管が多いので未点検箇所が出てくるのは避けられないと思っていた」(大飯町時岡町長)「点検すれば全 ての原発で検査漏れが出てくるのではないか」(事故の犠牲者の家族)といった意見は正鵠を穿ったものと言えましょう。 このような事態の背景には 次のような問題がある、と指摘されています。 (1)安全コスト切り詰めのために検査の簡素化が優先されている。(今まで原発の運転を止めて3カ月かけていた検査日数を40〜50日に短縮。 29日で済ませた例もある。その為原子炉を稼働したまま検査をしたり、24時間徹夜の作業体制を取ったりしている。現在は13カ月に一度の定期検 査が義務づけられているが、電力業界は18カ月もの長期連続運転を計画し、経済性を上げようとしている) (2)寿命延長や維持基準緩和に代表される欠陥容認制度。(ひびが見つかっても、危険なひびではないと判断し、そのまま運転を続けることを認める等) (3)検査が電力会社の自主的な基準に委ねられており、第三者のチェック機能がない。 (4)検査外注(下請け会社に任せる)のシステムの中で、情報がきちんと伝わり切らない。下請け、孫請け、その又下請けなど、極めて分かりにくい 人事の中で作業が引き継がれている。 指摘されている上記の問題から「電力会社と国が原発の現場の情報を実際に十分把握出来ていない」ことは明らかです。そして原発の状況をよくよく 把握していなければ、原発の安全は保障されないのです。コスト切り詰めが優先され、安全性確保が二の次にされている現状、システム自体が安全最優 先に働いていない現状は、極めて憂うべき事態です。現在稼動中の原発の安全対策を私たち消費者は十分に見守り、国と電力会社に働きかけて行く必要 があります。 しかし、たとえ安全対策が十二分にとられたとしても、本当の安全が確保出来たとはいえません。 1986年のスペースシャトル 「チャレンジャー号」の事故を思い起こして下さい。去年起きたスペースシャトル「コロンビア号」の事故は記憶に新しい事でしょう。どちらのケースも 宇宙飛行士は全員死亡。これらは、アメリカNASAの最先端の科学技術を誇り、一万回に一回の故障確率と言われた「安全な環境」の中で起こった事故 です。「コロンビア号」に乗って亡くなった宇宙飛行士ラモン氏は、搭乗する前に「全く心配ない。シャトルにはバックアップのバックアップのバック アップがある。」と言っていたそうです。 安全対策にパーフェクトはありません。 何故なら、人間そのものがミスを犯す存在だからです。 何故な ら、人間の想定出来ることは有限ですが、想定外の事は無限にあるからです。 この事実をはっきり認識していないと、人間は自分をパーフェクトな存 在と思い込み、大変な過ちを冒してしまいます。 (以下、次号に続く)
暑い暑い夏も去り、農場を我がもの顔で自由に飛び廻っていたトンボ、秋アカネの姿は消え、コオロギのか細い羽音が時折草むらから聞こえる。山を 下りた秋アカネは、田んぼや小川で生まれ、真夏は涼しい山や高原などの避暑地で暮らす。その移動は時に100キロを超えるといわれている。下界の田 畑では、秋アカネが黄金色に染まった水田の上を秋風に乗り、気持ち良さそうに飛び廻り、時折こうべを垂れた稲穂に止まり羽を休める。 今年の夏は、今までにない厳しい暑い日々が続いた。楽しかった幼い頃の夏の思い出は脳裏より消え、日々身を焼き焦がす勢いのお天道様を恨めしく 仰いだ。お盆の頃、泉山脈に沈む太陽は映像で見た砂漠に沈む夕陽のようで、その風景にモスク等の中東の建造物が思い浮かんだ。どこからともなく コーランが聞こえてきそうな錯覚に陥る。これも猛暑のせいであったのだろうか。しかしながら灼熱と言える陽射しの中、きゅうり、なす、トマトなど の夏野菜は健康に育ち、私たちの食卓を日々賑わせてくれた。夕立は殆んどなく、散水ホースを引き回す日々が続き、かなりの時間が散水に費やされた。 我が国が世界に誇れるものの一つに美しい田園風景がある。中でも、棚田の美しさには目を見張るものがあり、深く心に映る風景である。歪(いびつ) にくねる岸、土手の高さも様々で近代農業に逆行している風もある。5月に植えられた早苗は日々成長し、大きく力強く分結し水面を覆い尽くす。まる で真っ青な絨毯を敷き詰めた大広間のようになり、秋には黄金の絨毯へと模様替えする。日本人の心とも言える米作り、八十八の手間隙を掛け育てる。 「粗末にするとバチが当たる」と、幼い頃両親に教えられた。 稲作は古代中国や朝鮮半島より伝えられ、日本人の主食となり幾久しい。当会でも稲作は昭和35年より行っている。金剛山麓に広がる棚田にて、 西尾喬さん(おん年81歳)御夫婦が有機栽培で約一町歩作付けされてきた。肥料は完熟堆肥を中心に油かす、ヨウリンを使用、収穫量は10a当り平均 8〜9俵をいただき、時には10俵をいただいた年もあった。本年もいつも通り1月より土作りが始まり堆肥を田に入れるとの事、直営農場より完熟堆肥 トラック8車、約24トンを運搬し各水田に下ろした。「無理をしないで下さいよ。」何度か声を掛けさせていただいた。その返事はいつも「米作りは土 作り、堆肥無しでは真の米作りは出来ない。」氏の農業哲学でもある。 その西尾さんが体調を崩され入院されたと聞き病院に駆けつけたのは本年の稲作の準備を全て終わらせての事であった。ご家族の方も身体のことを思い 「もう高齢だから、そろそろ鍬を置かせていただいたら。」と度々お願いされたそうである。「堆肥を運び土を耕す。それで命を落としたなら本望だ。」 奥様よりお聞きしたこの言葉に胸を打たれた。入院されてから2ヶ月足らず、我が農業の大先輩であると共に師でもある西尾喬さんはこの世を去られた。 葬儀に参列させていただき、喪主である御子息は、「父は昭和35年より梁瀬義亮先生に師事し、ある夜家族の前で『これから私の農業は病める人、苦しみ の中で求めている人々のために田畑を耕す」と力強く言いました。』と御挨拶された。農を超え、哲学、いや一つの宗教であると深く感銘を受けた。 45年余りに及ぶ有機栽培により、大地は肥え黒々とした輝きのある土になった。現在、減反政策が行われる社会の中、80歳にして水田の整備もされた。 「私は後世のため、日本農業のため美田を遺す。」氏は田んぼの中で私にそうおっしゃった。長年に亘り農業者としての人生のあり方を実体験によって 示された。 氏の遺志を継いだ御子息が、教鞭をとる傍らお父上がこと細かく記された農業日誌を基に、愛情を込め育て上げた稲は見事に育ち、秋の日差しを受け、 時折吹き下ろす金剛からのそよ風になびく。誰もいない黄金色がたなびく水田に、亡き西尾さんの姿が映る。お別れに一輪の花を捧げたお顔は、満たされ た美しい微笑み、農業人生をやり遂げた自信に満ち、厳乎たるお姿が神々しく私の目に映ったことを思い出す。そこには悲しみを超越した光り輝く秋の 空間が広がっていた。