慈光通信 137号 2005年6月
梁瀬先生が大往生遊ばされてから一三年。年を経るにつれて先生の偉大さがひしひしと偲ばれます。 先生が早くより世を案じ子孫を憂えて叫ばれていました通りの不安な恐ろしい世の中となって来ました。 「西尾さん、『生死の中に仏あれば生死なし』という意味が分かりました。」 いつか先生にお目にかかりました時ににこやかなお顔で申されました。修證義の第一章總序の最初の文のことです。私は突然で少しうろたえましたが先生は 「苦労のなかに仏があれば苦労でない」 たしか、このように説明して下さったと思います。私の低い頭で自分流に解しましたので先生のお言葉通りではありません。先生は常にこんなことで悩まれ、解った時点ですぐ周囲の人にご指導下されるのだなあと感じ入りました。五條でこんな立派な先生にご縁をいただいたことが不思議で不思議でなりません。 岡口より西久留野へ通じる道は“荒坂”と呼ばれて、名の通り急な坂道の上にでこぼこ道で石がごろごろ出ていました。先生はその坂を登って往診して下さったのです。 「単車がかわいそうだから押して登ってきました。」 そんなお言葉を当時の私はどうお受けしていたのでしょう。亡父も亡夫も子供たちも先生のお陰で重症を救って頂きました。今思えば勿体ない限りでございます。 先生が五條へお戻りになられ医院をご開業遊ばされた当時、時々亡義父を訪ねて下さいました。対談の座にお茶を運ばせて頂いた時、先生のお言葉の一端をそっと拝聴させていただいたことが思い出されます。 「阿太峰のような広い土地で農業をしてみたい。」と申されたように思います。その頃は先生のお考えやお悩みのことはつゆ知らず夢物語とお受けしておりました。今思えば既に一万人の生活調査もおすみになり生命力と生活様式の関係がお解りになっておられましたのです。そして「慈光農園」の実現へと・・・。とても人として至難の大事業をなしとげて下さったのです。 白い壁にやわらかな緑色で“慈光会健康食品販売所”と大きく浮かぶ立派な会館を初めて見上げさせていただいた時はほのぼのとした歓びがこみ上げました。先生はどんなご心境であられたことでしょう。 仏教法話を承れる聖堂と安心して美味しくいただける食品を提供して下さるお店をお遺し下さってどんなに感謝申し上げて良いのかわかりません。 先生のお著書「仏陀よ」「生命の医と生命の農を求めて」等をくり返しくり返し拝読してこの広大な御恩を忘れぬよう心がけたく存じます。 正しい仏法、無農薬有機農法、そして健康について充分ご指導いただき据え膳にしていただいている私共はこの上ない幸せでございます。先生ありがとうございます。 合掌
「神戸へ日本有機農業研究会に行ってくる。」 私が小学生の頃、ある日突然両親が出かけて行ったのを思い出します。この研究会が梁瀬先生と両親の初めての出会いであったのではないかと思います。それ以来、協力農家として三十年以上も梁瀬先生のご家族の皆様をはじめ、慈光会を通じてたくさんの方々に支えられてお世話になりながら、今日まで過ごさせていただいております。 両親がこの研究会に参加した目的は、新たな農法を学ぶためでした。それまでもずっと農業を営んできた両親ですが、その数年前より母親が体の異常を訴えるようになったのです。農薬を散布している最中に気分が悪くなって倒れ、こんな害のあるものを使用した生産物を消費者に提供することはできないと言い出したのです。しかし、農薬を使用しないで作物を生産する術を知らない両親にとっては現在の有機農法への切り替えに随分苦労していたことを子ども心に記憶しております。害虫によって作物が育たなかったり、たとえ実ったとしても外形が悪く一般消費者には商品価値が認められないということも聞かされていました。 そんな折に出かけた研究会から帰ってきた両親の姿は今でもはっきりと蘇ってまいります。 「とってもすばらしい方に出会えたよ。梁瀬先生という五條市に住んでおられるお医者さんで、一緒に帰ってくる車の中で・・・・・」 我が家の農法を180度転換する光を差し込んでいただいたのは、まさに梁瀬先生であったと確信しております。新たな農法のお教えはもちろん、数々の苦難を乗り越える上で、両親にとっては梁瀬先生はかけがえのない存在であったと思います。仕事一筋の父親が大きな不安を持ちながら新たな農法へ踏み切れたのは、母親の体へのいたわりとともに、梁瀬先生の心の支えがあったおかげだと感謝の念を抱かずにはおれません。 それからしばらくして慈光農園が開園され、中学生の私も微力ながらお手伝いをさせていただいたことがあります。梁瀬先生宅に泊めていただいてお話をする中で、誕生日(三月五日)が同じで感激したこと。坊ちゃんの乗っていたジープに憧れて今も四輪駆動車を愛用していること。そして何よりも影響を受けているのは、私の三人の愚息に「慎慈」「亮慈」「拓慈」と命名させていただいております。 現在は実家を離れ、大阪で教育に関する職に従事させていただいていますが、梁瀬先生の『愛する子孫の生存と幸せのためご尽力ください。』の「六、教育」に書かれている七行の内容を噛締めながら日々過ごしております。 最後に、梁瀬先生が築かれた慈光会の益々のご発展をお祈り申し上げます。
「先生教えて下さい」 今日も私は先生のお写真に向かって申し上げています。 「先生、お助け下さい」とまた申します。 でも、その答えは既にご生前の折りに繰り返しご教示下さっていたのです。 「第二のノアの箱舟を五條に作ろうと思うんですよ。」 その頃医療にご多忙の日々を過ごされておられましたのに、尚もご苦労を増やそうとなさる一大事に私はお返しする言葉もありませんでした。しかもその時先生はそれはそれはお優しい笑顔でおっしゃたのです。 財団法人慈光会は実現されたのでした。協力農家の方に加えて直営農場も準備なさいました。その農場となるお山にも御自ら登られ様々なアイディアや実労に尽くされました。中でも開墾された土の上に古畳を敷く作業の折りお元気に先頭に立たれたお姿は忘れられません。先生は医学、農学等、人の生活面にみ心を向けられ実績を積まれてこれを糺されました。しかし先生の真心からなるご進言は受容されることもなく今日に至っています。かくして今の世は先生がお案じなされておられた方向に向かっています。まことに残念なことです。 非力かも知れませんが、この先生の御慈愛を賜った者として一人一人が姿勢を正す可きであります。 昨年より先生の記念資料室設立を支援する会のご浄財をお預かりする役目をもったいなくも仰せつかっていますが、皆様の先生に対する想い、すなわち先生のご意志への大いなる賛同と感謝に接し勇気を賜っています。 先生ご往生されてより一二年(一三回忌)、心を新たに先生の御慈悲のみ光りをもう一度仰がせて頂きましょう。
暴走する近代文明 |
食品添加物のわな |
「山崎パンの社長はんは自分とこのパンは絶対に食べはれへんそうやで」ある時娘が私にこう話しかけました。 「へえ…ほんまかいな、そら又なんでや」 「つまり…それはねえ…」と話してくれたのは、美味しくするために化学薬品の合成添加物で味付けして、大量生産、大量販売のために、防腐剤、防黴剤を使って長持ちさせ、これで会社は大儲け、ということのようでした。しかし薬品に発癌物質や内臓器官の障害の危険があれば、いくら美味しくてもそうやすやすと食べるわけにはいきません。 「成る程わかった、社長はんが食べはれへんのはそういうわけか」半信半疑ながら大体の事情は飲み込めました。私ははじめ笑い話かと思ったのですが、、本当ならこれほど消費者を馬鹿にした話はありません。 それから数日たったある日、ふと立ち寄った書店で、「怖い食品1000種」郡司篤孝著(ナショナル出版)−(1982・2・27)という本を見付けました。山崎パンの社長はんの話を聞いてから、日常の食品について可成り関心が強くなっていた私はためらわずその本を買って帰りました。 表紙をめくると“第一章・消費者がだまされる危険な食品”書き出しは『食パン』で、しかもいきなり山崎製パンが登場するのには驚きました。 上品な老夫婦の物語り (《 》内は「怖い食品」から引用) 《 知性溢れる老紳士と高い気品を漂わせる老婦人のカップルがスーパーのパン売場の前にたっていた。老婦人が一つのパンを取って、カゴに入れようとした。すると夫が、それを制してもとの棚に戻させた。『このパンは案外おいしいのですよ』と老婦人がいうと、老人は、『いや山崎のでなくては駄目だよ。山崎パンを食べたら、もう他社のパンはまずくて食えんからな』『でも』『でももこうもない、山崎パンのある店へ行こう』といってその場から離れた。 この良識の老紳士が、大企業パンの品質の実態を知らない事実、只美味しいという動物的な単純な理由だけでそれを求める行為、自分自身はそれでよいとしても、その良識も役にはたたず、可愛い孫にまで山崎パンをすすめているのではないかと心配になる。食品大企業の底知れぬ利潤追求の激しさに恐ろしさを感じる》と書き添えています。これでは一般大衆をころりと騙すくらいはわけはないようです。 《 1960年のベーカリー業界の法人所得のランキングによると製パン大手10社の内1位の山崎製パン93.7億円と2位関西ヤマサキ61.1億円で3位の敷島製パンの31億円を大きく引き離し以下7社と比較すると2社で約60%を占めている》 著者は毒パンを食わせて儲けているといいます。儲ける為には消費者の健康など知っちゃあいないということでしょうか。 何故大企業の造るパンが有害なのか 《厚生省から昭和38年7月にプロピオン酸という「防腐・防バイ剤」が指定された。これは、石油ガスのプロパンをを原料としているもので、同じ石油から造られる臭素酸カリウム(ふっくらとしたやわらかいパンを短時間で焼くためのもの)、他に数多くの食品添加物が許可されたことから、日本にパン製造の大企業が続々出現した。》 逆にいうと指定がなかったら、パンの大量や生産は行われず、市民の健康被害は今より幾らかは軽減されていたかも知れません。
奇妙な出来事(アトピー)について
2001年3月25日、慈光会主催の第3回学習会がありました。テーマは「今、私たちの体に起きている奇妙な出来事について考える」というものでした。 このとき放映されたビデオは、奇妙な出来事つまり「アトピー」の現状や問題点をいろいろ映し出しました。その中にアメリカの港から小麦を積み出す実況風景があります。船倉に流し込んで積み上げられていく小麦の山に向かって、まるで南国のスコールのような勢いでシャワーの雨をふらせています。シャワーの雨は消毒液です。この消毒液をたっぷり吸い込んだ小麦は日本上陸の後、製粉メーカーに引き渡され、小麦粉に変わります。さらに食品メーカーに引き取られて巧みに変身、装飾して消費者の口に運ばれることになります。 ビデオは、合成添加物はパンや菓子だけではなく、ジュース・練り製品・豆腐・ハム・ソーセージ・麺類・アイスクリーム・酒類などなどあらゆる食品に使用されていることを訴え消費者への警鐘を鳴らしています。 前述の郡司氏の「怖い食品」の話から20年たっています。しかしこのビデオが捉えた現在の映像は、20年前の危機的状況とまったく変わらない姿を映し出していました。いやむしろ、高度成長時代の自然破壊は今も尚無残な傷跡を曝け出しているようです。 このように混濁を極める社会にあって、梁瀬先生が提唱されました、自然という大生命の法則から生まれた「生命の農法」は完全無農薬による一貫した農産物の生産と販売を目指す慈光会の設立となり、安全食品の拠点として一段と虹彩を放っています。 先生の御著書「生命の医と生命の農を求めて」の末尾に「おわりに」と題した短い言葉があります。その中に『「生命」という厳粛な事実を忘れて暴走する巨大な怪物、それが現代社会である。』 と喝破されています。この現代社会を生んだのは紛れもなく人類の叡智の結晶として信奉した近代文明でした。その近代文明に対する先生の眼は常に厳しく、毎月開かれた仏教会の法話でも、それは破壊の文明であり死の文明であると断じられました。先生独特のお話しぶりはいつも楽しく、そして、いつも眼から鱗が落ちる何かを頂きました。今年はご逝去から早13年の忌を迎えることになりました。ひたすらに先生のご冥福をお祈り致し、唯々お教えを噛み締めながら生きて行きたいと願っております。 05年4月 合掌
1976年の冬、有吉佐和子さんの小説「複合汚染」で紹介されていた慈光会の農場を見学しようと、結婚したばかりの妻と五條の地に向かいました。道すがら車窓から見える風景は常緑樹が青空に輝き、急斜面の山に柑橘類が栽培されたりして、モノトーンの岩手の雪景色との違いに驚いたものです。 寄り道をしながら五條に着いた私達はまず販売所を訪れました。小さな店ながらどこか暖かい雰囲気が漂っていたのを覚えています。商品の中に岩手産の小岩井農場乳製品や三陸わかめが並んでいるのを見て、ずっと遠くの地で同県人に会ったような驚きと同時にうれしい気持ちになり、ついそれらを撫でたりしたものです。 有吉さんの小説には、梁瀬先生はとても多忙な方なので勝手に押しかけたりしないで欲しいと書いてありましたので、販売所と農場をそっと見学して帰ろうと思っていたのです。しかし、どう話が伝わっていたのか、販売所に先生のご子息、義範さんが「農場を案内しましょう」とトラックでやって来たのです。私達は渡りに車とお言葉に甘えて車上の人となりました。暫く走ると車は傾斜地を上ってゆきとても眺めの良い処に出ました。 山なりに造られた果樹園、頂上付近には雨水の貯水槽や堆肥置場、それから冬の岩手で考えられない露地のレタスや青菜が元気に育っていました。う〜んいい景色!こんな処でつくられた野菜や果樹達はさぞや美味しかろうと思ったものです。帰り道、義範さんが父が会いたいと申してますので家の方に寄ります、とおっしゃってくださり、おかげで義亮先生にお会いすることができました。先生は我々のために貴重な時間を割いて下さり色々な話をして下さいました。農業や病気のこと子育てのことなど、特に私達が栽培しているりんごの事にとても興味を示しておられました。 まだ若く有機農業に半信半疑だった私達にとって先生との出合いは、これから進むべき道を教えて頂いた人生の分岐点でした。 それから5年後にも五條を訪れました。 1985年には念願叶って岩手の地に梁瀬先生をお迎えし、講演会を開催することができたのです。会場には沢山の人達が来てくれました。講演会は勿論大成功。多くの方々にとっても良い講演会だったとの感想を頂き、スタッフ一同感激したことを思い出します。 全国には梁瀬先生に影響を受けた人達が沢山おられると思います。ここ岩手の地でもあの時教えて頂いた色々な事を思い出しながらこの運動を広げてゆきたいと考えています。
もし、死亡率100%の病気があるとしたら、私たちはそれをどんなにか恐れることでしょう。そして、もし、その病気に人類全体がかかっているとしたら・・・・。 そんなSF小説まがいの話が、実は、「私たち人間がおかれた立場の紛れもない現実」であることを、改めて知らされる機会がありました。 もう15年以上前の事になりますが、それを教えられたのは、旧友からの一本の電話でした。彼女は社会人聴講生として上智大学でアルフォンス・デーケン博士の「死について」の講義を受けた後に、私に電話を掛けてきたのです。 「デーケン博士が開口一番、なんておっしゃったと思う?『私たち人間の死亡率は100%です』って。そう聞いて初めはびっくりしたけど、講義を受けているうちに、それが現実であることをしみじみ実感したわ・・・。皆、知っているようで、実は分かっていない事よね。」 デーケン博士といえば、「死」の研究の権威でいらっしゃって、ガンで死を宣告された人々の心のケアや、家族を失った人々の生き方の指導など、さまざまな方面で活躍なさっておられる方です。NHK教育テレビ「人間大学」でも死をテーマにして当時講義をしておられました。その博士が、たとえ病気にはならなくても、人間の死亡率は100%であると、講義を始める前に真っ先に強調されたそうなのです。 電話を切った後、私は、自分の祖父が亡くなった小学生の日の事を思い出していました。初めて経験する身内の死だったので、本当に怖かったし、鼻の中に綿を詰められ息をしていない祖父の姿に言いようのない大きなショックを受けていました。 お通夜の席で 「でも一体、死んだらどうなるのかしら?」 と私は集まっていたいとこたちにおそるおそる話しました。その時生意気盛りだった中学生の従兄が、 「心配しなくて大丈夫だよ。君も一回は死ねるから、必ず経験できるさ。」と茶化したのです。それは確かに、正鵠を穿った答えでした。しかし、それだけにその時のぞっとした気持ちは終生忘れられないものとなりました。「死」という得体の知れないものが、自分の背中にべったり張り付いて、二度と取ることが出来なくなってしまったような感覚でした。その時子供心に思ったものです。 「『人はみんな死ぬ。』こんな恐ろしい事を、なぜみんな忘れて、毎日を平気で生きていられるのかしら…」と。
梁瀬先生は、その著書「仏陀よ!」の中で、「死という問題にどのように対峙すべきか」という事について次のように述べておられます。 <老、病、死の悲しみと苦しみ、さらに愛するものとの別れ、憎しみや恨みある者との合会(ごうえ)の悲しみと苦しみ、(すなわち人の世に真の平和と安定のない悲しみと 苦しみ)これらは人生の根本的大問題で、これの解決なくしては他にどんな良い条件が備わっていても真の幸せはありません。もちろん近代社会においてもこれらは一つとして解決されたものが無いのみならず、かえってますます深刻化しています。今の世の人は、視野がだんだん狭小になり、目の前の現実にのみとらわれて、遠い先のことが実感できなくなりました。勢い、老、病、死、ことに死の問題について考え論ずることを嫌う傾向があり、仏教の指導者においてすらその傾向が見られます。これは大きな誤りであって、これこそ実に人生の、そして仏教の根本問題で、けっしてこれから目を逸らしてはならないのです。(「仏陀よ!」第二章より抜粋)> 五十歳を過ぎた私の周りにも病に苦しむ親類の者、友人、知人の数が増えました。両親、叔父、叔母、そして親しかった同年代の友を含めて、彼岸へと見送った人の数も少なくありません。私自身が死亡率100%の人間の一人なのですから、それはやがて自分も通らせていただく道に間違いないのです。介護やお見舞いの為に病院に行くことがあると、病に苦しむ人の多さにいつも驚かされます。病院というところは、私たちの日常では覆い隠されている病と死というものが、むきだしの現実となって現れている場所であることをしみじみと感じないわけにはゆきません。 梁瀬先生は医師として、多くの患者さんの臨終の場に立会われた中で、「『死』というものの解決の道があることを何とかお伝えしたい。」とお思いになられたそうです。その思いが五条仏教会を始められる大きな契機になったとうかがいました。 その本当の解決とは、いったい私のような者にも分りうるものなのでしょうか?この果てしなく感じられる長い道程は、必ず導かれて遥かな国へと続いているのでしょうか?二十代の頃はこの疑問がいつも心を占めていました。しかし、五條に来させて頂き、梁瀬先生のお伝え下さる仏法に従って歩ませていただいているうち、どんな人にも解決は与えられているのだということ、そしてこの道は遥か輝く国に間違いなく続いているのだ、ということをはっきり確信させていただくようになりました。 みかんの花の馥郁と香る五月、梁瀬先生のご命日が巡ってくるたびに必ず思い起こすことがあります。先生が亡くなられてから今年で12年の年月が流れましたが、その記憶はまるで、昨日のことのように鮮明に甦ってきます。それは、亡くなられた先生の光あふれるお姿そのものと、その中に込められた威信に満ちたメッセージなのです。 かつて、仏縁の深かった、先生の患者さんが亡くなられたとき、その姿のあまりの尊さに先生ご自身がお詠みになったお歌があります。
○いみじくも君逝きませり み仏は かくいますぞと教へ垂れつつ
○ よきくにの ひじりのすがたや かくあらん やすけくねむる そのみ姿は
○ 尊くも蓮華の国をおがむらん そのかんばせは 映えかがやきて (「万教大和」より)
このお歌に詠まれているお姿は実に先生の亡くなられたお姿そのものでもありました。先生のお著書「死の魔王に勝て」の中には、死の解決への道筋が論理的にもはっきりと記されています。でも先生の亡くなられたお姿は、そのお姿自体が言葉を超えて、私たちに本当の解決を示してくださっていた、と思わずにはいられませんでした。お布団に横たわり輝きを放つ先生のお姿を足元から拝見した時、「今、先生は如来様に会っていらっしゃる」ということが、魂を突き抜けるような確信となって私の体全体を満たしました。「死」は乗り越えられ、先生は「永久(とわ)の光の園」へ導かれて・・・往ってしまわれました。でも同時に、ここにも居てくださいました。西方十万億土にあるといわれるお浄土という世界。梁瀬先生のお父様の師でいらっしゃった島村外賢先生は「イギリスにロンドンがあり、フランスにパリがあるのと同じように、西方十万億土にお浄土があることを確信しております。」と常々おっしゃっておられたそうですが、梁瀬先生の亡くなられたお姿を拝した時には、それが本当の事実であることを教えていただいたように思われました。 現在の私たちはかつて予想もしなかった不安な時代の中に日を送らねばならなくなりました。いつ起こるとも分からぬ世界戦争。SARSのような未知の病の蔓延。地球の温暖化による世界的規模の異常気象。それによって引き起こされる生態系の破壊。子供を一人では安心して通学もさせられない時代になってしまいました。不安の種は尽きません。しかしよくよく考えるとその不安の底に横たわるものは「生・老・病・死」という仏陀が示された四苦なのではないかと思うようになりました。 不安な時代だからこそ、その本当の解決への指標が切望されます。梁瀬先生の遺して下さったメッセージが、その菩薩の様なご生涯と共に、今再び掘り起こされる秋(とき)が来ていると思うのは私だけではないと感じています。そしてそのメッセージを見失うことなく、私たちは現代という時代の中に受けた生を、共に歩む事によって全うさせて頂きたい、と切に祈らずにはいられません。
梁瀬義亮前理事長の十三回忌を期して慈光会定期大会を開催させていただきます。
講演と音楽の集い
第1部 講演の部 「悪化する生活環境と食物」
未来の子供たちに今できる事は… この度は同志社大学名誉教授で医学博士の西岡一先生をお招きし、「農薬、添加物、合成洗剤」等のいわゆる合成化学薬品の怖さを大変わかりやすくお話していただく予定です。
第2部 音楽の部
梁瀬先生を偲んで、ベートーベンの弦楽四重奏などを演奏していただきます。又、先生のご息女、牧村照子氏にピアノの演奏をお願いいたしました。
弦楽四重奏 京都市交響楽団団員
ベートーベン 弦楽四重奏 第16番 第3楽章, シューベルト セレナーデ, その他
ピアノ 牧村照子
ベートーベン ピアノソナタ テンペスト, ショパン ノクターン 遺作, その他