第二のノアの洪水がおこった |
奈良県五條市の私達のグループは、昭和三四年以来、第二のノアの洪水がおこっているということを、必死になって叫び続けてきたものでございます。すなわち、聖書にあるノアの洪水が水の洪水であるとすれば、いまや毒の洪水が起こってきている。それは、誤った農法によって起こった、農薬による国民の総慢性中毒である。 |
もう一つは工場排水による土壌汚染であり、いま一つは最近の家庭の下水で、合成洗剤やあるいは土にしみこませる方式の水洗便所の消毒に使う薬物のために、土壌が死んでいくのみならず、有毒化されてくる。 |
これによって起こってくる恐るべき被害、これらのことから起こる膚に粟を生ずるような事態を見まして、どうしても放っておけないというので、微力ですがグループを組み、ご一緒に運動させていただいております。 |
同時に、いずれこの事が大変な問題となり、農薬を使わない農法が要求される時期が来るにちがいないと考えたのです。それが10年後だと予想したのですが、農法はご存知のとおり、机の上で考えてその通りいくものではございません。実際やってみなければわからないものですので、協力して下さる農家の方とご一緒に、農薬を使わない農法は、いったいどうしたらよいだろうか、果たして可能だろうか、あるいは収穫面において、どれほどの不利、あるいは有利な点があるだろうか、ということを調べてまいったのです。 |
そうしてやっていうる間に、私達の気づきましたことは、いろいろな形の公害問題というものは、その根本はわれわれのものの考え方、あるいは近代科学文明の根本的な理念的誤りからきているといったような、深刻な問題にまで突き当たったわけでございますが、きょうはそのようなことについても、少々申し上げたいと思います。 |
生命に関する無知が人間の知恵の特徴 |
最初に、私たちの物を考える過程、思考過程が、正しいか正しくないかということを、われわれ議論するのですが、そのもう一つ前に、発想自身が正しいか正しくないかということが、非常に問題だろうと思うのです。 |
ご存知の有名なフランスの哲学者であり、また数学者としてもりっぱなベルグソンが、「生命の関する無知が人間の知恵の特徴である」ということをいっておられます。われわれは生命に関しては何も知らないんだ、という謙虚な出発点に立つものの考え方に対して、現代人がおそらく知らないのに知ったと錯覚して、はじめからその生命問題につっかかっていく態度、この態度を私たちはもう一ぺん反省しなければならないんじゃないか。 |
現代の科学にしろ、あらゆる学問にしろ、生命ということについて、われわれは全く知らないんだという謙虚な態度からものを進めていかなければならないんだということは、私たちもいろいろ研究してみている間に突き当たった問題であり、とらねばならない態度であると思います。健康という幸福を求める努力をお互いにやっているわけですが、今の医学だって、健康を求めるための一つの努力ですが、またそれ以外にも、何式健康法、何式健康法と、たくさんの健康を求める真摯な方がおられるわけです。 |
しかしながらその健康法の求め方ですが、みんなそれぞれ一国一城の主になって、一つないし数個の原理を掲げて、自分が正しいんだ、他人は正しくないんだという態度をおとりになる例をよくみるんです。 |
これは農業についてもそうであって、この農法、この農法といろいろやっておられる方が、みな一国一城の主になって、自分のとこが正しくて、他のものは正しくない、という態度をとることが、非常に多うございます。私たちは、お互いに生命に関しては無知なんだ、だから謙虚に自分を反省し、ひとさまのおっしゃることを謙虚にきき、考え、あるいは自分自身、人間はものを考えるとき、まず最初に基礎的な仮定というものがございますから、つまり根本仮定(自分の持っている公理)に対する謙虚な反省をしながら、進めていかねばならない。このように考えているのものでございます。 |
人間という生命現象、この生命現象の中に、健康というのも一つの生命現象であれば、病気というのも一つの生命現象であります。この問題を解決するにあたりまして、いままで医学はどんな態度をとってきたか、農学はどんな態度をとってきたかと顧みまして、私はその態度にあやまりがあったことに気づいたのです。それは、近代文明が、工学、ことに機械の方面において、非常な発達をいたしましたが、その成功に眩惑されたんではないかと思うのです。機械は生命のない世界ですし、はじめから人間が作っていく世界である。しかるに、生命の関与する医学、農学は最初から生命という、われわれに分からない、未知の要素が入ってきている。 |
それから医学にしろ、農学にしろ、必ずその対象は自然という、はじめから与えられたものの中における生きた存在をとりあつかっている学問であるにかかわらず、研究方法に、工学と同じような方法をとっておったわけです。たとえば、人間にしろ、植物にしろ動物にしろ、全て自然の中に生きた一員であるにも拘わらず、このことを無視して、自然から遊離した状態に於いて研究対象とするという、あやまちを犯している。 |
(以下、次号に続く) |
二本目のDVDは、遺伝子組み換え種子を開発した「モンサント社」という農薬会社が、遺伝子組み換えの特許を取ったため、そこから引き起こされる様々な問題を取り扱っていました。 |
1番目の問題・・・裁判の事例 |
カナダのパーシー・シュマイザーさんは、ある日、自分の畑に蒔いた覚えの無い遺伝子組み換え菜種(菜種の名前を「ラウンドアップレディー」という)を見つけました。そしてそれをシュマイザーさんが植えたか植えないかという事は問題にはされず、「ラウンドアップレディーが彼の畑にあった」という事実により、彼は「ラウンドアップレディ」の遺伝子組み換え特許を持つモンサント社から「特許を侵害された」、として訴えられたのです。種は近隣の農家が運搬の時こぼしていったものなのか、あるいは、近隣で栽培されているラウンドアップレディの花粉が風で飛んできて交配してできてしまったものなのか、又は虫や鳥によって運ばれてきたものなのか・・・・、とにかくシュマイザーさんには全く身に覚えの無いことだったのです。シュマイザーさんは、自分の年金すべてを使って裁判費用を捻出し、最高裁まで闘かったのですが、結局一票差で負けてしまいました。裁判の判決は農民にとって苛酷なものでした。農民が額に汗して収穫した自分の農場の収穫物の中に、モンサント社の遺伝子組み換え種子が見つかったら、その収穫はすべて特許を持つモンサント社の所有物になる、という判決なのです。そして農民が特許を侵害した加害者としての責めを負うのです。自分の種(たね)を遺伝子汚染された被害者のはずの農民が、特許侵害の加害者になってしまうのです。モンサント社に与えられた「特許」という権利は、巨大で理不尽な怪物となって、今や、全世界を席巻しようとしています。シュマイザーさん以外に現在100件の訴訟が進行中だそうです。モンサント社に訴えられた農民の多くは、少しの罰金を支払ってモンサント社と和解する道を選びます。そして和解に応じた農民はその内容を他言する事を禁じられるのです。シュマイザーさんのようにモンサント社と戦う為には、大変な労力と経済力が必要とされるのです。 |
この映画の上映運動がアメリカで広く展開されてから、アメリカでは様々な動きが起こりました。それぞれの州で法律が独自に作られるアメリカ合衆国では「サウスダコタとネブラスカは他の8つの州と並んで、州法改正により、家族所有以外の農業を禁止しました。」もう大企業が侵入してくる隙を与えなくしたのです。「企業は、『ネブラスカ州政府には企業の農地所有を禁ずる権利はない』と主張しましたが、ネブラスカ州最高裁判所は『どのような憲法がよいか決めるのはネブラスカ州民であり、それが基本的権利で、アメリカ民主主義の根本である』と結論付けました。」(「」かぎかっこ内は『食の未来』テキストより引用) |
又、ドイツでは「遺伝子組み換え生産者に、遺伝子汚染を受けた農家に対する全面的な損害賠償を負わせる法律」を作りました。ドイツでならシュマイザーさんは被害者としてその権利を守られるのです。日本でも早くこのような法律が作られるべきです。さもないと、日本でも第二、第三のシュマイザーさんが出ることになるでしょう。 |
又、米国の自治体メンドシーノ郡では遺伝子組み換えをすべて禁止する条例が作られました。企業が企業秘密と称して、場所を明かさず遺伝子組み換え農産物の野外実験を行うと、花粉は自由に飛散し、その遺伝子汚染は止まるところを知らず広がってゆくからです。日本でも是非遺伝子汚染を防ぐための法律を作るよう、働きかけて行きましょう。 (以下、次号に続く) |
七月一日梅雨の晴れ間の一日、五條市市民会館において「梁瀬義亮記念資料室」の開館を記念して「講演と音楽の集い」を開催させていただきました。400名入るホールは、ほぼ満席の盛況でした。 |
第一部では元京都大学工学部助教授、使い捨てを考える会前理事長(今春退任)槌田劭(つちだたかし)先生が「子供の食と安全」というテーマで、一時間の講演をしてくださいました。 |
槌田先生は最初に梁瀬前理事長と大変深いご縁があったことをお話くださいました。そして本題に入ってからは、現代社会の「お金が全てである」という風潮を「金主主義」と表現し、その価値観が錯覚である事を指摘されました。「命を育む『食と水と空気・・・大自然』の大切さ」を力説され、「自然は共生しているのであり共生する自然の中に生きる場を与えられて生物は生きる」原理を話してくださいました。(「共生共貧21世紀を生きる道」より抜粋:樹心社刊)子供たちの食の未来について考えるときでもこの原理をよく理解して「自分さえよければいい」という自己中心的な発想を改めなければならないこと、自然との共生が無いところには、本当の「食」も成り立たないことをお話くださいました。 |
思えば化学肥料も、農薬も、除草剤も、人間の目先の利益と利便性を目的として、人間の都合を中心にして作られたものでした。「自然との共生」とは全く逆なものです。「自然を殺すもの」といってもいいのかもしれません。有機農業こそ自然と共生して人間が生きさせていただける唯一の農法であることを再認識させていただきました。 |
講演会の当日の朝、槌田先生はいつもどおりご自宅の畑で農作業を終えてから、五条に来てくださったそうです。21世紀、私たちの生きる道筋は、出来る限り質素に暮らし、地球上の物資を大切に使って行くことです。先生は「便利な使い捨ては未来の子や孫の可能性を奪っていく。子供の幸せを本当に願うなら、大人が社会の問題を自らの問題として考え、できることからまず努力しなければならない。」と述べられました。 |
第二部では、ヨーロッパで活躍中のチェリスト五味敬子氏と、故梁瀬義亮前理事長の次女でピアニストの牧村照子氏の演奏がありました。帰国中の五味氏は、記念資料室の?(こけら)落としの為に、快く演奏を引き受けて下さいました。五味氏は牧村氏の長女でピアニストの英里子氏と京都芸術大学時代からの友人で、牧村氏は娘さんの友人と共演、という形になりました。 |
演奏会はチェロの独奏、バッハの無伴奏チェロ組曲から始まりました。チェロの音色については、宮沢賢治作の有名な童話「セロ弾きのゴーシュ」の中にこんな小さなお話があります。「母親に連れられてきた具合の悪い子ねずみが、母親の頼みでゴーシュのセロの中に入れてもらい、ゴーシュにセロを弾いてもらって、その振動との共鳴で病気が治る」というエピソードです。五味氏のセロの響きにはそんなお話を彷彿とさせるものがありました。演奏が終わると、五味氏の演奏に会場からは大きな拍手がわきました。 |
次にトロイメライやサン=サーンスの白鳥といった小曲がチェロとピアノで演奏されました。馴染み深い曲なのですが、心の奥に浸透してくるように響くお二人の息の合った演奏に、感動された方が大勢いらっしゃいました。また、二人の演奏家の心の交流が私たち聴衆の胸の中に、何かとても暖かいものを注ぎ込んでくれているようにも感じられました。 |
最後のセクション、ピアノの独奏は、ベートーベンのピアノソナタ・葬送、祈り、から始まりました。ベートーベンの曲は梁瀬先生とたいへんゆかりの深い曲ばかりです。旧制高等学校時代、理系に進まれた先生は近代科学が教える世界観と仏教が教える世界観とのギャップに大いに悩み、体調まで壊されたと伺いました。その先生の悩みに答えるかのように響いた曲がベートーベンの「運命」でした。そのときの事を先生は次のように綴っておられます。 |
「そのときの感動はもう筆舌に尽くしがたいものでした。喨々(りょうりょう)となるトランペットの響きは私に真理の実在を啓示し、勇気と生きる喜びを与えてくれました。(中略)ベートーベンの音楽によって私の魂にさしこんだ、あの光明の偉大さ。爾来47年間、私はベートーベンを慕い続けました。」 |
音楽によって、言葉では伝える事のできない何かを伝えることが出来る、先生は生前、よくそうおっしゃっていました。牧村氏の演奏は、そうした感動を静かに伝えて下さるものでした。 |
言葉では、伝わらない何かが、会場に伝わったからなのでしょうか。初めておいでになって「涙が止まらなかった。」とおっしゃる方、「普段は気づくことの出来ない、静かな世界がそこに広がっているかのようでした。」と表現される方、「美しい心が、あたり一面を領しているように感じました。」「暖かい光を感じ、そして梁瀬先生がおいでになっているように思われてなりませんでした。」と感想を述べてくださる方もいらっしゃいました。人によって表現は様々ですが、日常の忙しさの中では中々気づくことの出来ない「世界」を、それぞれの方がそれぞれの立場から垣間見たことは共通している、といえるのかもしれません。 |
一方、演奏者の五味氏は演奏後「あの会場から伝わってくる温かさは何なのでしょうか?」とその温かい感動の経験を牧村氏に伝えてくださったそうです。又、牧村氏は「会場にお越しの皆様はじめ多くの方々に支えられて弾かせていただきました。自分が弾いたというよりも、何か弾かされたという感じがします。本当にこのような場を与えられたことを心より感謝申し上げています。」としみじみと感動を語っておられました。 |
聴衆も演奏者もお互いが感動を共にする演奏会でした。梁瀬先生が亡くなられてから、はや、14年の歳月が流れました。「梁瀬義亮記念資料室」の完成を機に、益々先生のご遺志が後世の人々の心に伝わり広がらんことを祈るものです。 |
農場便り 8月
地表の全てを焼き尽くす勢いの夏の日差しも、夕方になると幾分柔らかな日差しへと変わってくる。涼しくなるのを待って、きゅうりなどの夏野菜の収穫、管理に向かう。その前に果樹園の頑固な雑草と一戦交え、既に汗だくになった作業着をコンクリートの上で絞る。作業着から滴る汗は、見る見るうちに蒸発してゆく。それを横目に見、仕事への充実感を感じながらも夏を苦手とする私は、もうこの時点でオーバーヒート気味。この後残された作業のナスやきゅうりの顔が眼に浮かぶ。夏野菜は成長が早く一晩で太く、長くなってしまうため、朝夕の見回りが必要とされる。重い腰を上げ、本日3度目の着替えを済ませ、いざ出陣。葉陰に注意し、つややかなきゅうりを手で一本一本もぎ、収穫カゴに入れていく。見る見るうちにカゴはいっぱいになる。一つ一つ顔の違うきゅうりは深い緑に輝き、おしりには咲き終えカラカラになった花びらが残る。 |
お天道様が山の向こうに沈む頃、夏の最も嫌われ者の蚊が動き出す。日中は葉陰で英気を養い、夕方一斉に飛び立つ。夜中寝静まった頃、暗闇の中で1秒間に520回の羽音をたてる1匹の蚊と孤独な格闘をした経験をお持ちの方も多いのではないだろうか。たかが2.5mgの蚊に大きな図体をした大人が振り回されるのである。慈光農園に出没するのは、白と黒のストライプの藪蚊である。足元から顔までのうち、露出している肌を狙い何十匹もの蚊がまとわりつき、隙あらば、と柔肌に止まり体一杯に血を吸う。前理事長の教えの中に「無益な殺生は避けよ」とある。教えはできる限り守っているが、条件反射でつい顔を「ピシャリ」としてしまい、反省の毎日である。大の大人がこんな小さな虫如きに悩まされること自体が何とも情けないことである。 |
夏の作物の中に南国生まれの「ゴーヤ」がある。近年南の離島に人々の目が向けられ、その食文化が内地にも紹介され、広く知られるようになった。初めて口にしたときは、苦く青臭い味が口に広がり「何だこれは…」と思ったが、今ではチャンプルや油で揚げたゴーヤチップス、ゴーヤジュースは我が家の夏の定番となった。農場でも少しではあるが、毎年栽培している。しかしながら、会員の皆様にはあまり人気はないようである…。 |
苦瓜(ゴーヤ)はインドや熱帯アジア、アフリカで食され、江戸時代に中国より沖縄に伝わる。ビタミンCが豊富に含まれ、きゅうりの10倍で疲労回復、夏バテ防止に。マンガンは肝機能を向上させ、糖尿病や骨粗しょう症から身を守る。たんぱく質は血糖降下作用、腫瘍やガンを抑制し鎮痛作用があり、活性酸素を抑制する。カロチンはガン予防、モモルデジンは血糖降下作用があり、苦味成分がそれである。その他にも健胃作用、整腸作用、皮膚の老化防止、コレステロール降下、風邪や便秘の防止、種子には強い血糖値降下作用があるとされる。体が弱る夏場には是非食し、猛暑を乗り切っていただきたい。 |
和泉の山々の空を染めた夕焼けもいつの間にか消え、暗闇が周りの風景を包みだす。昼間に賑やかだったバッタたちは日が沈むとピタリと鳴き止み、代わってカエルが周りの水田で歌声を上げだす。蚊は益々力が増し、私の周りを狂喜乱舞する。蚊の餌食となったところをボリボリ掻きながら仕事を終える。血液が中性から弱アルカリ性の人は蚊が寄り難いそうだが、私は汗かきで、どうやら酸性体質、その上もち肌、それが災いしているのだろうか。人類は、母なる大地に太いパイプを打ち込み、地下資源を欲望のままに吸い上げる。蚊は、少しの間我慢をすればかゆみも治まるが、この地球を汚す悪しき行為は環境を狂わせ、地球上のすべての生命の存続を脅かす。地球にとって一番鬱陶しい生物は人類ではないだろうか。 |
夏の夜、昼間の猛暑で疲れた体を冷たい畳の上に横たえ、天井を見上げる。蚊取り線香のゆらゆらとした細い煙が部屋の中に模様を描く様を目で追う。進化と共に複雑になっていく社会を今一度見つめ直し、反省する時間と心を持ち原点に返る、それが人類にとっても一番の幸せではないだろうか。 |
鬱陶しい蚊も生態系の一員、大きな気持ちで受け入れなければと思い直す。この有り余る血液、いくらでも差し上げます。あの痒みさえなければ…。 |
日本の夏・蚊に悩む夏 農場より |
『生死巌頭に立って』 平成元年5月28日 於;寶満寺 |
貸し出しは無料です。ご自由にダビングしてください。 |