生命力というものはどのようなものか、ということを考えてみたのですが、これは、ベルグソンが「生命に関する無知が人間の知恵の特徴である」と言ったように、生命というのは千古の謎です。けれども、在ることは確かです。誰でも皆、自分で自覚できます。それが、目に見えたり、耳に聞こえたりしないだけのことであって、生きているという事実は、これはもう、どんな事実よりも確かな事実なのです。それから、我々に抵抗力があるということも絶対の事実ですし、むしろ我々は抵抗力で生きている訳です。又、逆に考えたら、今の医学だって人間に生命力があって自然に治る力があるということの上に成り立っているのです。だから手術も出来るし、抗生物質も効く訳です。『抗生物質が効く』ということは、その人に生命力があるから、抗生物質でばい菌を抑えてあげると、その間に回復するということなのです。だから、生命力がなくなってしまうと、どんな強力な抗生物質をやっても効きません。このごろお年寄りが肺炎でよく死にますね。私もその危険が多分にあるのでございますが、これは何故かというと、悪い空気やいろいろな原因で肺の生命力が落ちている訳です。そうすると、少々抗生物質をやっても効かない、そういうことになって来ている訳です。「生命力が弱るから病気が起こる」、そういうことに気づきました。結核でいえば結核菌が入っても病気は起きません。しかし例えば自然状態では決してありえないほど多量の結核菌を動物に入れますと、結核になります。人間でもネブライザー( 噴霧器)でいっぺんに結核菌を入れたら結核になります。しかし、こういう「濃厚感染」ということは、現実には起こらないし、ありえないのです。結核患者の側にいても、そのような濃厚感染は起こらないのです。普通の感染状態では、生命力があるかぎり、結核にはならないのです。
生命力というものは一体どういうものなのだろうと考えて、それから色々な経験を振り返って、結局こういうことに気づきました。人には生まれながらに寿命というものがあります。生まれながら強い人、弱い人、いろいろあります。生命力が特に弱い人は赤ちゃんの間に死んでしまったり母体内で死んでしまったりします。又、生まれて来た人でも生命力の弱い人は一〇代で死んだり、二〇代で死んだりすることもありますけれども、大体は六〇、七〇位は生きる生命力を持っている、というのが今までの経験から分かります。犬は一〇年から一五年位で死にます。牛や馬は大きくて丈夫で強いけれど、いくら自然の中にいても二〇年もすると死にます。やはりそれだけの生命力、寿命なのです。
現代の医学は消防車としては非常に強力ですが、もう一つ火の用心の医学がないのです。抜けているのです。お医者さんへ行ってもそうでしょう。扁桃腺になっていたら薬をくれたり、切ったりしてくれます。けれども、「あなたの扁桃腺は何が原因で起こった」ということを教えてくれません。胃潰瘍で診てもらって、胃潰瘍の薬くれたり手術したりしても、「はい、治りました。これでよろしい。」とおっしゃるだけで、「あなたの胃潰瘍というのは、こういう訳で起こってきたから、気をつけなさい」ということは、普通言ってくれませんでしょう。
そういうことに気づいて、ずっと研究して参りました。
尼崎という所は、私にとって不思議な所で、このようなことに初めて気づいた場所なのです。その後に、農業の問題や、農薬の問題にも関わるようになりましたが、その中で、近代社会が根本的に大きな誤りを持っていることを知り、このことを警告させて頂かなければいけないことに気づきました。その内容を申し上げますと、近代文明というのは基本的に間違っているため、いくら表面で繕っても、根本的にものの考え方を変えなければ、絶対駄目であるということです。このことを私が初めて言い出したのが昭和三五年でございます。そのためにも、東洋の聖者方がおっしゃったこの仏教の教えを皆さんに知っていただくのは有益で大事なことだ、という訳で色々な運動をさせていただいる訳でございます。
尼崎というところは、そういうことに気づいた初めの場所であるとともに、そこで工場公害にやられて、公害喘息になってそして、ほこりや石炭ガラや石の粉を吸い込んで珪肺になってしまって、それがまた僕の命取りになってきたという、なにか不思議な因縁ありまして、おもしろいものだなあ、と思うのです。何か尼崎というところは私にとっては非常に思い出深い所なのです。
当時わたしを含めて四人の医者が、同じように公害喘息にかかったのですが、他の先生方は皆三人とも五十五歳になるまえに、二人は肺ガンでもう一人は結核で亡くなっておられます。ところが、私はこうやって七十二まで生きさせていただいて来ました。しかも、今でも結核とかガンになっておりません。ただ、肺が萎縮して息が出来ないのですが、このように生きさせていただいております。又、この苦しみが、私の仏道修行の最後の有り難い締めくくりとなって下さっているということを、非常に感じております。考えてみますと、私という人間は本当に幸せな人間だったなと思うのです。苦労は多かったけれど幸せだったなあとしみじみ思うのです。今、私は、決してへたばっておりません。皆さんにご迷惑かけて、病院止めるということをしてはいけないのですが、「さあ、来てくれ」と云われても、とてももう、医者として往診に行けません。しかし、思えばこういうお話しさせていただいて、ある意味ではそれの方が、本当の医者かもしれないと思っています。
ヘール・ボップ彗星をご覧になりましたか?
払暁に見えていた彗星は、何日も経たないうちにやがて日没後の北西の空に輝くようになりました。銀河宇宙の中に発光した長い尾を引いて、無窮の彼方からやって来た彗星を静かに眺めていますと、永遠の時間と無限の空間の交点にたたずんでいるような不思議な感覚に捕らわれます。
彗星のその長い尾が、必ずしも進行方向と逆になびかないのは、太陽系の中を吹き抜ける太陽風のためだそうです。太陽を源とするこの太陽風は、彗星の尾を必ず太陽と反対の方向に吹き飛ばすのです。そのように猛烈な太陽風が吹き荒れている太陽系の軌道の上を、今、地球は動いていますのに、この地球の上では、恐ろしい太陽風などあたかも存在しないかのような静けさであるのが、大変不思議です。彗星の尾を吹き飛ばしている苛酷な太陽風が、今、もし、宇宙の中と同じように地上に吹き荒れていたとしたら、勿論人間など生存することもできなかったことでしょう。宇宙のどのような不可思議のシステムが働いて、地上にこの静かな環境が作り出されて来たのかは知る由もありませんが、大自然の叡知には、ただ、感嘆するほかありません。
人間は、今ではすっかり傲慢になり、人知を最高の智恵であると錯覚し、生命の不可侵の領域、DNAまで操作しだしてしまいましたが、いったい人知でこの太陽風を避けることなど可能でしょうか。地球の軌道を少しでも変えることが出来るでしょうか。宇宙の広大無辺さとその働きの不可思議さを身近に感じますと、人知の小ささと低さをひしひしと感じない訳にはゆきません。
今度、この彗星が地球を訪れるのは三〇〇〇年後になるそうです。何という遠い未来の話でしょう。西暦もまだ二〇〇〇年に達していないのですから。
日常生活に追われる日々の中でも、ふっと宇宙を見上げると、美しい天体の輝きに悠久の時の流れを感じることがあります。梁瀬先生は夜、月や星を眺めるように勧めて下さいました。先生ご自身も、星座や宇宙のことにとても造詣が深くていらっしゃいました。ある時、仏教会の講話の中で、「犬が、お月見をしているのを見たことないでしょう。」とユーモアたっぷりにおっしゃって、「いくら月や星が輝いていても、それを見る側に受け止める心がなければ一向に見えないものなのです。」と話してくださったことがありました。そして、法然上人の次のようなお歌を紹介して下さいました。
「月かげの いたらぬさとはなけれども ながむる人の 心にぞすむ」
イギリスの詩人キーツは、このように外界からのメッセージを受け止める能力を、「ネガティヴ・ケイパビリティ」(受容能力)と名付けています。梁瀬先生はこの能力について次のように書いておられます。
「普通我々の能力と申しますと、お金を儲けるとか、出世するとか、勉強が出来るとか、いろいろな外界へ働きかけていく力《ポジティヴの能力》のあることを申します。『我』が中心になって事を行う能力です。これに対して、己を放下して、謙虚に懴悔と感謝と一切衆生の為の祈りのある時には、心が真空になっておりますので、真理の力が我々の心身に入って来てくれますから、人間の力、或いは人間の知恵としての能力ではなくて、真理の力が働いて下さるのです。それで『成す』のではなくて、『感得する』ではなくて『感得せしめられる』ということが起こってくるのです。これが、ネガティヴ・ケイパビリティです。」(「永遠の生命を求めて その四」より抜粋)
宇宙や大自然からのメッセージを謙虚に受け止める心を培(つちか)うことができたなら、人間も宇宙の一員であり、大自然の生態系の一部であることを、心から理解することができるようになるのかもしれません。
ヘール・ボップ彗星を見上げていると、宇宙の神秘が本当に身近に感じられてきます。人間に与えられたもう一つの大切な能力《ネガティヴ・ケイパビリティ》を思い出しながら、一度静かに星空をご覧になってはいかがでしょうか。
慈光通信索引へ
朝日新聞の神戸、大阪版に「慈光会産の無農薬タマネギ一・五トンを贈る為の配布ボランティアを探している」という記事を掲載して頂いたところ、垂水区星ヶ丘の住民の方から申し出があり、早速贈らせて頂きました。
住民の方からのお便りによれば、その地区では震災の被害が大きく、家を失った方も大勢いらっしゃるそうですが、公的援助は全く無く、ボランティアの援助も無かったそうです。皆さん、自力で頑張っておられ、まだ、再建までには遠く困難なみちのりがあるようです。
又、もう一つ「プロジェクト 結ふ(ゆう)」というボランティア団体から申し出があり、そちらでも、無事被災者の方々の所へ配って頂くことが出来ました。少しでもお役に立てたらという気持ちが、ボランティアの方々のお力添えで実現出来、感謝いたしております。この団体には全国どこからでも様々な形で「後方支援」させていただけるシステムがあるそうです。詳しくは下記へお問い合わせ下さい。
(〒662 西宮市芦原町1−20 プロジェクト結ふ 0798−64−5829 65−5254)
慈光通信索引へ
先月号で特集いたしましたバイオテクノロジーを使った「遺伝子操作作物」について、医者の立場からの梁瀬先生のご意見が遺されていましたので、以下にご紹介致します。
昭和六三年一月一〇日 第三九六回仏教会講話より (前部略)
近代科学を批判する、すばらしい宗教的な超科学ができてまいりました。しかしながらその反面、科学が進んできたが故に電子顕微鏡ができて、バイオテクノロジーができてきました。そして、生命の科学が、人間といわずあらゆる細胞の染色体、遺伝因子をさわりだしたことは、これは大変なことです。近代文明を、もっと悪いマイナス次元において破壊するような要素ができてきました。これは恐ろしいことが起こるに違いないと、恐怖をもって見ているわけであります。
最近、このバイオテクノロジーの中で出来たものはどうですか、と意見をよく聞かれます。それを申し上げるのに、たとえば植物というものは、肥料をやれば大きくなると思っておりますね。水の中に化学肥料などを溶かして、そこで育てる水耕栽培というのがありまして、その方法でも植物はできます。しかし、この生きた大地を正しく作って、生きた土から育ったものと比べてみますと、どちらも格好は同じ植物です。けれども違うのです。同じ大根でも食べてみたら味も違うし、生命の糧としての質が違うのです。人間が自然の一員であるという、この最も基本的な人間存在の原則から考えると、自然にないような染色体というものをこしらえて、できたものを食べていると、必ずこれは二十年、三十年すると、恐ろしいものが出てきます。多分ガンになるということを、わたしは申し上げているわけです。
みなさん、もしわたしの云うことを信じてくださるなら、バイオテクノロジーなどでできた、自然でないものは、なるべく食べないほうがいいと思います。又、水耕栽培などでできたものは、自然ではない半分人工物ですから、なるべく食べないほうがいいと思います。このことを理解していただきたいと思います。(後略)
(伊藤義信氏がテープ起こしをして下さった文を基調に使わせて頂きました。)