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老後への私案
  

梁瀬 義亮


 
1988年6月23日 於 五條市公民館 高齢者を対象にした講演会
私達の心の生活と健康とは深い関係があるのみならず、最近のような時代になりますと益々その関係は密接になって来ているのです。例えば、皆様は第一線から退いておられる方が多いと思われるのですが、それでも色々とストレスがある訳です。そんな時に、先程申しましたように、呑気になれと言ってもそう簡単になれるものではありません。 そしてもう一つ、年をとりますと健康が弱ってきます。年をとると生命力が衰えてきますから、例え丈夫な人でも病気になります。先程申しましたのは、生活の仕方によって生命力が衰えるという話でしたが、誰でも年をとることによって生命力は衰えて来る訳です。ですから病気も多くなります。 それから、私達の死というものに対する不安は、若い時にはひとごとでしたが年をとってくるとひとごとではなくなります。一休和尚が、あの方は悟った人でしたからそんな恐怖はなかったでしょうが、「今までは 人が死ぬぞと思うたに 俺も死ぬとはこいつはたまらん」という狂歌を残しております。このように、死というのは重大な問題です。実は、私はお寺に生まれさせていただきまして、信心深い仏教学者である父に仏教の訓導を受けました。その事と、小学校五年生の時に、私を可愛がってくれた叔母が肺炎で急死致しまして、その叔母の死に顔を見たときに持った死ということに対する恐怖心、これが私の一生を決めたのです。私が理科系に行ったのも、何とかして死という問題を解決したいという思いからで、仏教の研究の一つの部分として理科系、自然科学の勉強をしたのです。けれども、戦争とか色々なことからこのように医者となってしまいました。しかし、「死という問題」は大事な問題で、いやな話とは思ってはいけないのです。これはどうしても対決しなければいけないし又、必ず解決の方法があるのです。解決することによって我々がより幸せな、より偉大な老後を送れる、或いは人生の今までの分を取り返せるという非常に良いことがありますので、是非お聞き願いたいと思います。又、こういう問題について私が一生やってきましたことを聞いていただけるのは大変うれしいことであります。どうぞ、一つのご参考にしていただきたいと思います。  私達は生きている生命体です。生きるということがあれば、必ず死ぬということがあります。これは当然のことです。そしてこの間に「老い」という問題があります。又、生きるという事については、生きている限り「自分」が可愛いものです。「自分」があれば必ず好きなものと嫌いなものが出てきます。この嫌なもの、恨みあるもの、恨んだり憎んだりといったものは必ず出てきます。我々は、嫌いな人、嫌なことには必ず出会わなければなりません。病気も嫌なことです。貧乏も嫌ならば、戦争も嫌でしたが、否が応でも我々は戦争に直面して苦労しなければなりませんでした。それから、愛するものも、人と言わず物と言わず必ず出来て来ます。愛するのは良いことです。楽しいことです。しかし、愛するものを引き寄せたいとしても、引き寄せられたら結構ですが、いつかは必ず去っていきます。どんなに子供が可愛くてもいつかは別れなければなりません。どんなにいいものでもいつかは必ず壊れます。人生にはこういう一つの問題が必ず起こって参ります。これは、嫌だと言っても避けられません。人間が生きている限り避けられません。老いは現実の事実です。老いるということは悲しいことであって、年をとってみると、若い時に考えていたようなものではありません。私も若い時は本当に疲れない人間だったのですが、最近は色々と具合が悪いところが出来てきましてだめです。 このように、必ず老いという問題が起こって来ます。そして死が必ずやってきます。しかしこの問題を科学や進んだ近代文明は、決して解決してくれません。科学が、憎いものに出会う苦しみも、愛するものと別れる苦しみも解決してくれる事はあり

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慈光会第一回学習会レポート


「ダイオキシンの恐怖」
  


 
   去る二月二二日、慈光会館に於いて表題のテーマで学習会が開催されました。 当日は、遠方に住んでおられる会員や基準値以上のダイオキシン排出で焼却炉がストップしている地域の方の参加もあり、ダイオキシン問題の深刻さと、関心の高さがうかがえました。  理事長のあいさつの後、慈光会作成のパンフレットを配り、ビデオを見ながら学習致しました。  塩化ビニールなどとともにゴミを燃やすとダイオキシンが出てくる仕組み、又、日本の排出規制値八〇ng(ナノグラム:一〇億分の一グラム)は、一体どのくらいの量なのかということ等、映像を見て確かめました。一gで一万〜二万の人を急性毒性で死に至らしめるというダイオキシン。映像で見ると、いかに微量で恐ろしいか、一層よくわかりました。日本の規制値が、ヨーロッパの規制値〇.一ngの八〇〇倍というゆるいものであるということに驚いた参加者も多かったようです。  そのような現状に対して、私たちはどのような対策を取ることが出来るのか、慈光会では以下に記しました「対策の三本柱」を提案しました。  ゴミそのものを減らす。  ゴミを焼却しない。(脱焼却)  塩素を使った製品(塩化ビニール、漂白紙、防腐処理木材、等々)を作らない、使 わない。(脱塩素)  そして、それぞれの具体策を学習致しました。特に、「ごみを出さない生活」(ドイツ4R運動)、「ダイオキシンを出さない生活」(ダイオキシンを発生させるプラスチックの見分け方がよく分かるポスターを使って、実際にトレイや卵パックやペットボトル等の分類法を確認しました。)「ダイオキシンの体外排出を促す食生活」等は、すぐに実行出来る対策でした。  ポスター(一部二五〇円。日本子孫基金発行。)やパンフレットをご希望の方はお申し出下さい。ビデオも貸し出し致します。  これからも、様々な問題をテーマに取り上げてこのような学習会を開かせていただき、私たちの足元から生活を見直す機会にさせていただきたいと考えております。 慈光通信索引へ


至福のひととき

岩手県 協力農家

山口 博文

              北国岩手は暖冬から一転して、厳しい寒さに見舞われ久しぶりの冬らしい冬になりました。  田畑はたっぷりの雪に覆われ、葉のないりんごの木が凜として鉛色の空にモノトーンのシルエットを描いています。  雪国の農民は畑の土が見えなくなって、やっとのんびりした気分になります。  そうするとたまっていた雑用をこなしたり、家や農機具の修理をします。そしてその合間に自分の好きなことができるのです。  特に寒さの厳しい日や、吹雪の日は本を読んだりレコードを聴いたりします。  音楽なんていつでも聴けると思われるかも知れませんが、夏と違って冬はゆったりとした気分で楽しむことができるのです。  コーヒーの香りを漂わせ、外の雪景色を眺めながらクラシックやジャズをかければ、至福の時が流れてゆきます。  二年ほど前、次女が「これ聴くとゆったりとした気分になるよ。」と「アダージョ カラヤン」というCDを貸してくれました。  それ以来、クラシック音楽の素晴らしさを知りました。  特に梁瀬先生が心から慕ってやまなかったベートーベンの繊細かつ雄大さには圧倒されてしまいます。  盛岡には障害者とそれを支えるボランティアの人達が運営する「市民福祉バンク」という団体があります。市民が持ち込んだり回収した不用品の衣類や家具、自転車や電化製品などを、清掃や修理をして格安で販売するのです。  その中にはレコードも沢山あります。殆どはアイドル歌手や映画音楽など、一時期流行って今は見向きもされない物が多いのですが、モーツァルトやチャイコフスキー、ショパン、そしてベートーベンもあるのです。  世の中はとっくにレコードからCDに移り変わってしまいました。  レコードはめんどうくさかったり雑音が入る、そして針がなくなるなどで安楽死させられてしまいました。しかし、今では針も手に入りますし、雑音もそれはそれで味わいがあると思うのです。  そんなレコードを聴きながら二十年程前だったでしょうか、梁瀬先生とお会いした時のことを思い出しました。  色々なお話を伺っているうちに音楽の話題になった時、先生は「レコードやテープは言わば音の缶詰です、できるだけ生の演奏を聴くようにするといいですよ。」とおっしゃったのです。  そう言えば先生は時々娘さんのピアノの演奏会を催しておられました。  私がその意味を理解できるようになったのは、ずっと後になって生の演奏会に時々行くようになってからです。  梁瀬先生を励まし、慰め、勇気を与えたベートーベン。  その偉大さはまだ聴き始めたばかりの私達にはよく解らないのですが、ささやかな冬の一日、心を豊かにしてくれる音楽をせいぜい楽しみたいと思うのです。

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