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老後への私案
  

梁瀬 義亮


 
1988年6月23日 於 五條市公民館 高齢者を対象にした講演会
まず、自分が今ここに生きている、自分ほど可愛いものはない、自分ほど大事なものはない、 これは誰でもそう思っています。そして、「背に腹は変えらない」と言う言葉がある位、「自分が 大事だ」ということがあるのです。そして、この自分というものの上に私達の人生があります。 この自分に都合の良いものには愛着を感じ、自分に都合の悪いものには憎しみを感じるという、 愛憎の一生であります。自分に都合の良い財産であるとかお金であるとか、或いは美味しいものを 食べるとか、或いは恋愛、性、こう言った所謂、愛憎と欲望を追求する事が普通の人生なのです。 常に自分というものがここにある訳です。そして、生きることは当たり前だ、自分が楽しみ、自分 が色々な欲を張るのも当たり前だ、と思っております。そして色々な都合の良い事が自分に起こっ てくるのも当たり前と思っています。アメリカのゴールドラッシュで金を掘りに行くのも、石油を 探しに行くのも、俺が生きるのが当たり前で、俺が自然から色々なものを掘り出して来たら得をす るのだ、という考えです。全ての考えがこれです。生きることは当たり前、自分がそのような行動 をとるのが当たり前、これが私達の無意識にあるところの信念であり、生活の基盤です。
ところが、この当たり前がおかしいのです。
考えてみると、生まれると言います。受け身です。我々は自分の力で生まれて来たのではなく て、生まれたのです。受け身です。それから、生きるというと自分で生きているように思われます。 お米も農家の方が、「俺が肥をやって、水を引いて、米を作った」とおっしゃいますけれども、そ うではないのです。我々がやっているこのような農作業は、お米というものの合成という難しい 作業に比べたら何万分の一にもならないのです。現在、みかん一つ、柿一つ、菜っ葉一枚、米一粒 でも、絶対に現在のこの科学では合成出来ないのです。実に不思議な神秘なものなのです。もし 人間が合成できたとしても、一粒の米でさえ何億円をかけても、とても出来ないでしょう。それほ ど素晴らしいものを、「肥置いた、水引いた、わしが作った」と思っているのは間違いです。農家 の方々だけではなく私達も同じなのです。私達は自分で働いて生きていると思っていますけれども、 太陽のエネルギー、空気、水、植物、あらゆる物は全部ただで自然に与えられているのです。
又、私達は大勢の人間関係の中で生きさせてもらっています。早い話、父母から生まれて、そ して非常な努力によって育ててもらったのです。普通、子を持って知る親の恩と申しますが、私は 愚かでしかも、子供が小さいときは大変忙しく、子育ては家内が全て苦労してくれたので、私はあ まり苦労しませんでした。そのため子供を育てても、親の恩は分かりませんでした。今、自分の子 が孫を育てている姿を見て、「あ、大変な事だ。」と気づきました。
あれだけの恩を受けながら、私は何でもっと親孝行をしなかったんだろうと、本当に後悔しています。そして、もう手遅れですけれども、両親の写真を祭って、 毎朝晩、拝ませてもらっています。
このように、両親にかけた大変な苦労と、そして大自然の我々に与えて下さる恩恵というもの はすごいものです。それから、大勢の人の御恩、こういうことが積もり積もって、実は、生きると いうけれども、生かされている訳です。我々がしている仕事というのは、ほんの何百万分の一にす ぎないのです。「俺が働いて、俺が儲けてきた金で、俺が買った米を不始末にして何が悪い。」と よくこのようにうそぶく若い方がおりますが、そうではないのです。生きるのは当たり前ではなく て、生まれ生かされるということは非常に「ありがたい」ことであって、これが所謂「有り難い」 ということです。こういう事実があるのです。これは理屈で言えば文句のない話です。しかし、 理屈としては文句はないけれど、かく言う私も、理屈は分かっているのですが、心の底には「俺は 偉い。生まれてきた。俺が生きるの当たり前。」という根性が占めています。これが、人間の大き な迷いであり、大きな錯覚なのです。ここでこの「俺」という字を「人類」と置き換えて頂いたら、 近代文明が個人と同じ錯覚をしていることが分かるのです。
近代文明というものは、全て、当たり前という考えが中心となって成り立っているのです。 しかもこの中で、我々は当たり前の生活をしており、そしてその結果、愛憎の人生、葛藤の人生 があります。そして、死ぬ時は、どんな偉い人も、どんな富んだ人にも実に哀れな死があります。 本当に哀れです。これが普通の人生です。しかし、ひとごとではなしに、自分だったらこれはたま りません。哀れな死に方をしたくはないですし、又、哀れな年寄りにもなりたくはないです。 (実は私は、仏教会を毎月一回、二六年間勤めさせて頂いてきました。これは、医者であるから亡 くなる時の人の事を知っています。その哀れさを見るについて、自分が大勢の方のお陰で、こうし た問題について考え勉強する機会を与えていただいたご恩返しのつもりで、やらせていただいたの です。)
そして、今申しましたこのような理屈は、理屈としては通った話ですが、しかし実感として 我々の心を動かすだけの力を持ってない、というのが私たちの悲しさなのです。これが問題なので す。私はこのようなことに悲しみ抜いて来ました。
ところが私たちのこの当たり前の生活の中に、時々ふっとチャンスがあるのです。非常に尊い お方に出会った時に、ふっとある心の状態になります。所謂謙虚な気持ちです。或いは素晴らしい 大自然に接したときに謙虚になる瞬間があります。私にも経験があります。私が中学校五年生の時 に修学旅行に連れて行っていただいた時の事ですが、その時は何とも言えない素晴らしい天候でご ざいました。つづら折りの道を十国峠に登って行って、ある曲がり角を曲がった時、パーッと展望 が開け富士山が目の前にありました。その富士山があまりにも崇高だったので、もう息が詰まって しまう程の感動を覚えたのです。その時何か人生の一つの解決を得たように思いました。又、その 時の感動が、私が高等学校理科へ進むという一つの直感を得る機会になったのです。このような 機会があるのです。
「俺が生きるのは当たり前だ、俺は生きる権利を持っているんだ、俺が幸せになるのは当たり 前だ、俺が欲を満足するのは当たり前だ」という傲慢な気持ちがスーッと失せて、謙虚な気持ちに なる瞬間があります。尊い人に出会った時にもそういうことがあります。 (以下、次号に続く)

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癌が増えています

完全無農薬有機栽培の野菜(菜っ葉、根菜共)には、癌を防ぐ強い作用があります。芋、豆、菜っ葉、海藻等をしっかりお召 し上がり下さい。


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「生命の医と生命の農を求めて」の再版にあたって
  

内藤ゆき子


 
慈光会会員 (「仏陀よ!」「生命の発見」「死の魔王に勝て」等の翻訳者)

 
「第二のノアの洪水」の到来を予言する故梁瀬義亮先生の「生命の医と生命の農を求めて」は、今 を去る二十年前、昭和五十三年十二月に初めて出版されました。 内科の医師として医療に従事される中で、先生は、日本民族全体がやがて農薬や工場排水などによる毒の洪水に沈んでいくことを予感されました。化学肥料と農薬を主体にした近代農法は死の農法であるとして見直しを喚起するパンフレットを全国に配布されたのは、本書の出版に先立つ実に二十余年前のことです。完全無農薬農法で農作物を栽培し食することは、環境や健康に安全であると同時に私たち一人一人に本来備わる生命力(生物独特の、同時に病気治癒の内在エネルギー)を活性化させるということでもあります。先生は、日々の診療から、病気は生活と密接不可分な関係を持つ生命力の弱りから起きてくるもので、病気という現象が薬によって治まっても生命力が快復しなければ、病気を治して病人を作る結果を生み出すと考えられました。生命力の賦活に着眼された先生は、生命の医と生命の農を求めて生涯を深い祈りのうちに歩まれました。 マーク・カプリオ氏と私が「仏陀よ!」(昭和六十二年四月地湧社刊)の英訳に着手させて頂きましたのが、九年前の平成二年の時でありました。その頃の先生は、お咳は多かったものの、まだ、かなりお元気のように私の目には映りましたが、恐らくこの頃には、ご自身が生死厳頭に立っておられるという静かな自覚を持たれていたのでしよう。この故に−層ひしひしと、一人でも多くの方々に、仏陀釈尊の教え、すなわち、生命(いのち)の本来の姿をお伝えしたいというお気持ちになられていたのだと思います。しかし、明治政府の廃仏毀釈政策以来、人々の宗教的情操は荒廃の一途を辿り、仏陀のいのちの教えは、非科学的気休めの道徳的哲学、あるいは、おかげ宗教というほどの理解の中に封じ込められてしまっているのです。「私達はいわゆる科学的唯物論で洗脳され、それをかざしながら、物質の本体がわからない。自分自身の本体もわからず、その生も知らず、死も知らない。生命の本源本体、物の本源本体、それから一切の存在の原理本体を知る智慧、これが仏智です。」仏教会が開かれたある日の午後、先生は、お忙しいお身体の合間をぬって、私を呼んでこう話してくださいました。そして、「欧米には、まだ、キリスト教の精神風土が残され、宗教に対する受け皿が備わっております。私は、『この仏陀よ!』を英訳して頂いて、仏教が欧米から日本に逆輸入されることを願っているんですよ。」「仏陀よ!」は、幸い、先生のご存命中に英訳が完了し、 平成三年財団法人慈光会より出版されました。 昨年は、「死の魔王に勝て」(柏樹社刊)と題するご著書の翻訳本が出版されました。これは、あなたがもし、不治の病だと宣告されても決して絶望してはいけないという一文から始まっています。生死巖頭に立つ人々のために、先生が晩年に書き下ろされたものです。昨年秋から海外の宗教書のコレクションを持つ図書館、ホスピス等に「仏陀よ!」と共に発送され、現在、次々に送られて来ますお礼状に励まされ慈光会の方々と共に感動を一つにしている次第です。 「第二のノアの洪水」は、哀しいかな、今や人類全体を呑み込もうとしています。 私たちは、人智によって、物が如何に(how)在るか、生命が如何に(how)在るかは分析解明できるけれども、物が何故 (why)在るか、生命が何故(why)在るかということは分からないのですと、先生はよく語られていました。今こそ、人智の限界を人間文明の誤りから正しく学ばねばならない時だと思います。しかしながら、遣伝子組み換え作物の出現などに代表されるように、今尚、経済優先、人間至上という錦の御旗を振りかざし、人間も大自然の一部であることを忘れ、私達は、ついに人間が触れてはいけない生命の神秘の領域にまで足を踏み入れてしまいました。何という人間のエゴの暴走でしよう。私達が日々当たり前のものとして謳歌する太陽も土の香りも草花の可憐な美しさも澄み切った青空や空気も、全てが大自然の連関の中で育まれ生命(いのち)として顕われています。時空を越えて連綿と続く生命の営みを視野に入れた時、私達のノアの方舟は建立されていきます。今日の私たちの至福を、遥かなる生命への慈しみに還元されんことを切に願いながら、ここに、 「生命の医と生命の農を求めて」の再版にお骨折り下さった皆様方に、−翻訳者として、心よりお礼を申し上げます。


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復刊案内

梁瀬先生の著書「生命の医と生命の農を求めて」の復刻版が、ようやく願い がかない、地湧社より刊行されました。初版本より十九年が経った今でも生命 を全うするための農のあり方医のあり方の指針となっています。是非御一読下さい。

全国有名書店でも販売していますが、慈光会販売所でも取り扱っています。

定価 2100円 (本体 2000円)

送料 一冊 310円

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