慈光通信#112-#152


老後への私案(7)

梁瀬 義亮



(一九八八年六月二三日  於 五條市公民館 高齢者を対象にした講演会)


アメリカの宇宙船の宇宙飛行士と言うと、普通のパイロットではなくて、皆大変な学者なのですが、
その中に物理学者であるエド・ミッチェルという人がおりました。彼が書いた記録によりますと、月
へ行った時に、作業、又作業で忙しく暇などなかったけれど、いよいよ帰還のときにロケットが無事
地球軌道にのってしまい、それでやっと暇になった。やれやれと思ってふと宇宙船の中から外を見た
時、真っ暗な宇宙の大空間の中に数限りない星(星は皆太陽です)が輝いていた。その中に自分がこ
れから帰って行こうとする地球が、まるで見たこともないような見事な宝石のように、しかもどんな
宝石でもかなわないような美しいエメラルド色に輝いていた。そのあまりにも荘厳な自然の中で、彼
はエゴを忘れた世界を経験した、と言うことが書いてありました。エゴを忘れた世界というのは「自
分」が中心になって行っている普通の生活の中で、この「自分」がなくなる世界のことです。又、彼
は、その時のエゴを忘れた世界の経験というのは、実に感謝と平安とそして満足に満ちており、その
時私は神様の実在を無条件に信じた。そしてこの素晴らしい経験、それは溢れるような喜びであり、
地上にはない喜びであった。生きる生命の喜びであった。生きている事自身に対する限りない感謝と
喜びだった。これは表現ようのない喜びだった、と書いておりました。
私はこの言葉を聞いた時ベートーベンの第九交響曲にある「生命であると名付けることのできる者は、
歓喜の声を上げよ!」と言う言葉を思い出しました。その次にしばらくすると、地球上では考えられ
ないような悲しみが起こってきた。何かというと、あの美しい大宇宙の真理に祝福された地球上にお
いて、人々が小さな我欲のために争っていることを思った時の悲しみで、それは深い深いものであっ
た。続いて又、喜びが起こってきた。この喜びと悲しみの錯の中でいよいよ地球が近づいて来て作業
が始まり、地球へ着くとその喜びも悲しみも消えてしまった。しかしこの経験は宇宙空間へ出た者の
義務として人々にお伝えしたいという結びを書いておりました。
この事なのです。我々がこの生活では考えられない一つの世界を経験するチャンスがあるのです。そ
の世界には永遠の生命、永遠の光、生きていることに対する喜び、それから、この大自然が私達の本
当に有り難いお母さんであるということの実体験に対する喜び、こうした喜びと感謝と幸せとそして
永遠の生命の自覚の世界があるのです。
これを言い替えてみますと、自分というもの(エゴ)を中心としたこの世界において、今太陽の光が
輝いております。この光によって私達には世界が開けております。この光の中で私達は世界を見、そ
してその中で我々は自我を主張し、そしてこの太陽の光の中で愛憎と欲望の人生を送っています。そ
して死ぬときはこの太陽の光が我々から消える時です。この太陽の、この光を見ている訳です。けれ
どエゴが消えたときに現れてくるもう一つの光によって照らされる一つの世界があるのです。その
界は永遠の生命であり、永遠の光明であり、生きること自身に対する喜びであります。こういう世界
がもう一つの光によって現れてくるのですが、その光は普通にはないのです。我々が自我を中心にし
て傲慢な心で生きている限りは見えない光です。しかし先程申したような時に現れてくる光なのです。
そしてその瞬間に我々は、その世界を垣間見ることが出来るのです。
私は次のような話しを聞いたことがあります。ある若いお母さんが、自分の子供を交通事故で突然に
亡くしたのです。こんな恐ろしいことはありません。その悲しみというのは、この世のものではあり
ません。皆様もご理解くださるでしょう。まだいたいけな子供を死なせてしまったのです。それでそ
のお母さんはボケたようになってしまいました。その時、偶然お経を聞いたのです。そのお経を読ん
だ人の真心が通じたようで、その時にふっと一つの光を見たというのです。そうするとあの恐ろしい
悲しみ、胸をつんざく以上の悲しみが急になくなって、何か静かな喜びに変わったそうです。そして
その時からその人は生き返ったのです。こういう一つの世界がちらっと垣間見える場合があります。

実は不思議なことですが、人類の英知と呼ばれる立派な方、現在の人々の思想を支配するような或い
は現在の人を救うような偉大な方、お釈迦様、孔子様、ソクラテス、キリスト様、といった聖者方は
皆同じ時代に、わずか五〇〇年の間に出揃っているのです。不思議なことです。この方々に共通した
ことは、今申しましたこの不思議な光を特殊な超能力で実体験されていたのです。我々にはこの太陽
の光がなかったらこの世界は消えます。例えば今私の目が潰れて、そして光がなくなったらこの世界
は見えません。しかし光があるからこの世界が見えます。ちょっと余談になりますが、光というと皆
様は当たり前に思いますけれども、光というのは現在の物理学でも全くの謎なのです。光は物質でも
あり物質でもない不思議なものなのです。ある点では、質量ゼロの粒子としての性質を備えておりま
す。重さがゼロの粒子、又ある点では、単なる波長としてしか捉えられない性格を持っております。
これは謎なのです。光というものは全くの謎です。
同じようにこの聖者方は、もう一つの偉大な光をご覧になって、その光によって現れてくる世界を実
体験されたという点において、共通しているのです。私は決して仏教もキリスト教も何もかもが同じ
だと言うのではありません。それは皆違うのです。それぞれのお説きになった場所、環境、目的が違
いますからそれぞれ違うのです。しかし共通している点は、我々が光と考えているもの光と感じてい
るものとは違う光をご覧になるということです。そしてその違う光によって現れくる世界、これがお
釈迦様やキリスト様が説かれた世界です。この光を超能力で見て深く深く実際に体験され、そしてそ
の体験を、もう一つの光によって照らし出される世界を人類に分かるように、所謂今のこの生活をす
る人に分かるようにお説きになったのが、あの方々のお教えであると思われるのです。同じとは言い
ません、違います。けれどもこういう点では共通しているのです。
もう一つの世界、そしてその世界ある永遠の生命と永遠の光、この光を説かれたのです。そしてこの
光と、光によって照らされる世界を追実体験、後からもう一度実際に体験された方が多くの聖者方で
あります。日本で言えば、弘法大師様とか法然聖人、道元禅師とか親鸞上人とか日蓮上人とか、こう
いった聖者で、キリスト教にもアウグスチヌスとかたくさんの聖者がおられます。こういう方々はこ
の世界を追実体験され、そして説かれたのです。この世界の実体験を私達が持つときに所謂死のない
世界を我々は体験することが出来るのです。 (以下、次号に続く)


ドイツの環境教育に思う


慈光会会員 松村美栄子




慈光会主催第一回学習会「ダイオキシンの恐怖」に参加させていただいて、ビデオでドイツの現状を見ました。そして「何という賢い国があるのだろう。」と、とにかく日本の現状とのあまりの差異にびっくりしてしまいました。もう何年も前から、ドイツではダイオキシン問題が真剣に取り組まれていて、既に多くの有効な対策が立てられているといいます。それについては慈光会発行のパンフレットにも詳しく載っていましたが、一体この大きな違いはどこからくるのだろうかと考え込まずにはいられませんでした。

ビデオによれば、ドイツの小学校では週三時間のプログラムを組んで、熱心に環境教育に取り組んでるのだそうです。子供たちは、塩素(Cl)を含む物質(塩化ビニール等)がダイオキシン生成に中心的にかかわっていることを学校で学び、その結果塩素の入った消しゴムなどは買わなくなりました。文房具店では店頭に置いても売れないため、置かなくなり、又、その影響を受けて、メーカーは作らなくなったとのことでした。「教育」と「教育を受けた消費者の選択」が、メーカーを動かしたのです。

一体、ドイツの環境教育とはどのようなものなのでしょうか。
「ドイツを変えた一〇人の環境パイオニア」(今泉みね子著 白水社刊)を読んでみますと、「情緒を伴って学ぶ」ということが、ドイツの環境教育では大変重要なポイントになっていると書いてありました。例えば、缶をポイと捨てることは悪いと頭で分かっていても、情緒を伴わない場合は、面倒臭いと平気で捨ててしまいます。そこで、空き缶拾いのボランティアや、空き缶が森に捨てられたときの観察のための野外活動(空き缶を放置することによって野生生物にどのような悪影響が出るか、一年間にわたって観察する。)等の、様々な経験を子供たちに積ませます。理論だけの知識はもろいですが、このように体験的に学んだことは子供達の素直な心に終生忘れない記憶となって、一生涯働きかけてくれるのだそうです。自然との一体感、人間以外の生物への共感を持つ体験も非常に重要なプログラムとして組み込まれているとのことです。例えばみみずに名前を付けて、全校生徒で飼い、みみずの「カーロ」が自分たちと地球上でともに生きる仲間であるということを共感させるというのです。子供たちは一年間に亙ってカーロの観察日記を付け、カーロの気持ちになってカーロの登場する劇を演じます。また、黒板にカーロの絵をかいて授業を受けます。カーロがどのようにしたら喜ぶのか考えながら世話をします。子供たちにとってカーロは日常生活の一部となり「カーロ」にとって嫌な環境は、私たち人間にとっても良いものではないことを理解してゆきます。「カーロ」はいつまでも土にならないプラスチックを嫌います。木の葉や小枝や野菜くずなどでできた腐葉土の中では幸せそうです。子供たちはカーロの幸せを願うようになるのです。

ある校長先生は、学校の近くを流れる川の環境を学者たちとともに四〇〇キロメートルにわたって調査し、その結果、環境破壊が進んでいること知りました。そしてその現状に大人も子供も不安になっているところへ、校長先生は行動を起こしたのです。

「子供たちの不安を取り除くためには、子供たち自身が問題解決のために、何かを実際に自分の手でできる機会を持つことが大切なのです。」と、子供たちと共に川辺への植樹を始めたのです。 その結果「いまでは、小川の岸には大きく成長した柳、ポプラなどの木々が茂り、かつての景色からは想像できないほど緑が豊かになった。農家から無料で貸してもらった畑沿いでも、長さ四〇〇メートルにわたる樹木の列が、春夏には美しい緑の壁をなしている。」ということです。(括弧内は本文より抜粋)

その後、小川の里親制度というのができました。希望する小川の里親となって、ゴミを拾ったり、植樹をしたりして、川の世話をするのです。そしてそこに生息する動植物を観察し、州政府に報告をするのです。この運動はドイツ全土に広がり、子供たちだけではなく大人も巻き込み、現在では全国で数百の学校クラスや団体が、里親として活躍しているそうです。

また「生物のすみかづくり」も盛んで、これは山や畑の斜面に草花や潅木を植え、植樹し、分断された森と森をつないでゆく運動です。ある学校ではこのようにして植えられた木が既に四万五〇〇〇本に達したということです。先生と、子供たちがこつこつと続けた植樹は、大きな「森」を作り出したとも言えるのではないかと思いました。

「頭で考えるだけではだめ」というモットーはドイツ環境教育の根幹をなしているそうです。しっかりと観察し地道に行動し体で経験して行く中で、人間としての生命が育てられてゆき、そこからまた、次の行動が生まれて行くのでしょう。このようにして育てられた子供たちは、情緒の深いところでこれらの経験が根付いていて、ミミズのカーロや自分たちが植えた木のことを決して忘れることはないのでしょう。 

梁瀬先生が「農業は土作り、土作りは人づくり」とおっしゃていたことが思い出されます。同じように、ドイツ環境教育とは、大自然に畏敬の念を抱く人づくりなのではないか、との思いを深くいたしました。


慈光農場日記



二月の半ばから慈光会の農場でお手伝いさせてもらっているKと言います。

「大体、慈光会は商売気がなさすぎる!!〇〇なんて機関紙で『今、農場でどんな作物がとれているか』とまめに宣伝するから、『低農薬野菜』などという、いいかげんな有機農法の野菜でも買う人は安心して買い込んでしまう(単純だよね)。逆に慈光会ではどんないいお野菜が採れていても『農場の作業現場』が消費者に伝わってこないから、野菜に関心を失ってしまう会員さんが少なくない。最近はこまめに野菜を取っている会員さんでもだんだん取らなくなってきている。これでは悲しすぎる!農場担当の理事長さんはお忙しそうだから、おまえが何か書きなさい!書かなきゃ明日から弁当は作ってあげません!」などと親に脅迫され、極めて「商業的」な理由により、ぼくはたまにしか行かないのだが、農場での一日を四月から日記につけることになった。だが梅と柿の木の区別もつかない、地上に茂ったニンニクの葉を見て「カボチャですか?」などと質問するような「植物学的知識」の全く欠けたぼくだから、「今日は何をしたか」という事実を並べるだけで終わってしまうだろう。が、とにかく書けば、慈光会に貢献できるかどうかはいざ知らず、ぼくの明日のお弁当は保証されるのである。

四月一日(水)(雨)
いつも〇〇駅から一時間ほど電車に揺られて五條までやって来る。春休みのせいか高校生がほとんどいなくて、今日は列車の中はとても静かだった。慈光会のお店の側に農場用のトラックはとめてあるが、その倉庫の側に桃の木が一本植わっている。今日というこの寒い日に、満開だった。八時二〇分頃農場にYさんとTさんとぼくの三人でトラックに乗って出発。二〇分弱で農場に着く。実に寒い。温度計を見ると三度ほど・・・まるで冬なみの寒さ。出発したときは小雨だったのに、着いてみると雨はんだんだんと激しくなってきた。小屋の中でしばらく待つことになった。雨がやむのを待ちながら“なんのかんの”としゃべっていると一〇時過ぎになる。しょうがないので弁当を食べる。雨は止む気配がないどころか強くなるような感じ。仕方なく一〇時半頃から一一時半頃まで農機具の倉庫を掃除したり、倉庫内の農機具に電源を入れたりする。機械はたまにエンジンをふかしたり電源を入れたりしないと悪くなってしまうそうだ。あとトラックの掃除。一二時過ぎのラジオの天気予報では、今日は一日雨らしく、農場の仕事はあきらめて帰った。

四月一五日(水)(曇り後晴れ)
先二日土砂降りで今日も雨かと思ったが晴れた。桜も梅もすっかり散ってしまったけれども、山桜の白い花だけが咲きしだれていた。Tさんが農場から見える五條の緑を見て「日に日に緑が多くなるね」と言われた。
午前中から午後四時半にかけて畑の作業道作り。雑草が青々と生い茂っている中に鍬で掘り起こして道をつける。三人で手分けして取り組んだ。人間の通る道は幅三〇センチぐらい。キャタピラ※用の道は幅八〇センチぐらいで大体長さは五メートル以上掘り返さなくてはいけない。雑草の根が強く深いので、作業はなかなかはかどらない。そしてただ掘り起こせばいいのではなく、掘り起こした土が下方に流れないように「道」の形を固めていかねばならい。けっこう骨が折れる。作業をしていると暑くなってきてシャツー枚になって鍬をふるった。Tさんは上半身裸でしていた。四時半からは場所を変えて、石灰撒きをした。石灰は、土壌のペーハーを整えるために必要な無機物。バケツに石灰を入れて手で四反の畑に撒いたのだが、風が多少あったためか撒き方が悪かったためか作業服が真つ白になった。Tさんはその後草刈り機で草刈り。Yさん「Kくんにも草刈り機の使い方を教えてあげるよ。」ぼく「免許いらないんですか?」Yさん「ぼくが免許出します。」 今日はこれで終わり。
※二〇〇キロ以上の重さの物を運べる農作業用機械

四月一六日(木)(快晴)
昨日の続きで農作業用の道づくりをする。ぼくはキャタピラ用の道を一本仕上げたが、YさんとTさんに「この幅じや機械は通らないよ・・・」とほとんど直されてしまった。午後からは別の所にある二つの農場へ菜種かすを撒き、土をおこしに行った。農場を出る時、人相の悪いおっさんが無断で農場に入ろうとした。わらびとりの連中らしい。Yさんが注意すると一言も謝らずに車でいってしまった。
別の場所の一つ目の農場では、まずTさんとぼくが堆肥を手作業で一度撒くと、後からYさんがトラクターで土をおこした。二つ目の農場ではTさんとぼくとで堆肥だけを撒いた。もうすぐ種の蒔きつけが始まる。なすびにきゅうりに、秋きゅうり、すいかなどである。トラックに乗って慈光会の倉庫に帰るとき、ピンクの花を咲かせたスモモの木を二本、見つけた。

四月二二日(水)(晴れ後くもり)
今日はトラックで三つの農場をかけまわった。
一つ目の農場では、なすびを植える三本の畝(うね)にビニールマルチをかぶせた。雑草を生えさせないようにするためである。ぼくが幅七五センチのマルチを広げ、Tさんがクワで畝の両端に土をかぶせた。「二人だとよくはかどるなあ・・」とTさんは言われた。二つ目の農場でも、トウモロコシを植える三本の畝にビニールマルチをかぶせた。なすびのマルチは幅七五センチだったが、こちらは幅一五〇センチだった。まずYさんがトラクターで畝をおこし、それから三人でマルチをかぶせた。ぼくが畝にマルチを広げ、Yさん・Tさんが左右片方ずつ受け待って側に土をかぶせた。この農場の隣は民家である。そこの飼い犬がぼくらに向かって「わんわん」とよく吠えた。
ぼく「さみしいんでしようね。一緒に働きたいんでしよう・・・」
Tさん「いや、臆病なだけじやないの」
Yさんは「五郎、うるさい。」と犬に言った。
午後からは、山の農場で働いた。YさんとTさんは、果樹の世話をし、ぼくはフキをカマでなぎはらった。カマを振るっていると、ところどころ野イチゴの小さな白い花が顔をだす。熊ん蜂がレンゲを飛びまわってミツを集めていた。
ついこの間まで葉っぱらしいものが全くついていなかった柿や梅の木に、今はもう木々を一本一本見分けられない程、葉が青々と生い茂っている。隣の山々にも濃いグリーンの森がいくつもいくつも出来ていて、それはまるで外国の農牧地帯のような景観をつくりあげていた。

四月二三日(木)(曇りのち雨)
朝農場に入って小屋に向かう途中、僕らが乗るトラックの前を一羽の鳥が鳴きながら横切った。「何という鳥ですか?」と聞くと「あれは・・・だよ(僕が覚え忘れた)。もともと朝鮮半島からの渡り鳥だったのだけれども、日本に定住したみたいだね。」とYさんが答えられた。外国の鳥は日本で市民権を取っているようだった。
YさんとTさんは手、摘蕾の作業に取り組み、ぼくはカマでフキを刈った。そして午後からはぼくも教えてもらって摘蕾を始めた。これがまた中々はかどらない。片手で柔らかい新しい枝を支え、片手で柔らかい小さな新芽を摘んでいくのは多少の慎重さを必要とする。生まれて初めて万年筆を使うのと同様に、力の抜き加減を知るには少し時間がかかりそうだった 。小さい木を仕上げ、大きい木の2/3ほど仕上げたところで雨がひどくなってきた。今日の作業はきりのいいところで区切りをつけた。

四月二四日(金)(曇りのち雨)
今日は朝からYさんとぼくの二人で摘蕾に取り組んだ。この作業は「スピードをあげて手早くする」なんてことはできず、しかも絶えず木の芽と「にらめっこ」していなくてはいけない。けれどもぼくは、工場でのベルトコンベアーの作業の様に肩のこりや目の疲れは感じなかった。(もしかすると植物にじかに接することはストレスと無縁なのかもしれない)。だが一日にほんの数本しか進まないのに、何十本もある柿の木の山をいくつも見ると、やはりこれは根のいる気の長い作業である。けれどもぼくは「まだあんなにあるの〜!」というがっくりするような気分はしなかった。何というか、いつまでやってもちっとも不自然じゃないと言う感じ。Yさんによると、この摘蕾を続けながらいろんな作物の種を蒔くそうである。
休憩の時Yさんがぼくに言われた。「K君、春蝉(春ゼミ)が鳴いていたね。」ぼくは枝をちぎらないようにと必死であり、ちっとも気が付かなかった。まだ四月と言うのに、気の早いセミはもう鳴きはじめているみたいだった。
この一週間、たまにひくことはあっても土砂降りの様な雨がずっと続いている。ぼくがよく降りますね。」と言うと、Yさんは言われた。「異常気象だね。この時期いつもはこんなに降らないよ。一年間に降る雨の量は決まっているのに、今頃こんなに降ったんでは夏に水に困ることになる化も知れない。まぁ一応この農場には雨水を貯める一〇トン入りのタンクが二つあるけどね・・・。」
今日は雨を縫うようにして作業を続けた。Yさんは雲の色や動きを見ただけで、雨がくる時を予測された。午後から作業をしていると、西空の雲の色が険しくなってきた。Yさん「雨がちかい!」ぼくらはあわてて軽トラに乗って小屋に戻った。そこでいつものように雨がやむまで持参のお茶を飲みながら“なんのかんの”と話をして待ち、もう一回小屋のすぐそばの山でしばらく作業した。雨がひどくなってきたので今日は早めに切り上げ四時半頃農場を出た。  (以下、次号に続く)


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