梁瀬 義亮
私の父と非常にご縁があった方で神戸に堀田正雄さんという方がおられます。この方は八十二才
です。私はこの方は本当に昭和の聖者だと思っております。素晴らしい方です。しかし、この方は普
通の方で、ある木綿問屋の番頭さんをしておられました。その木綿問屋さんが私の父をいつも招待し
て下さっておりまして、父は毎月一回ずっと講演に行かせていただいておりました。堀田さんはその
講演の時に一緒においで下さった方で、ご縁あって大変深い信心を持たれた方なのです。この方は一
つの世界をはっきりと体験しておられるのです。今から十年程前に、その方の娘さんが三十三才で亡
くなられたのです。嫁入りをして、子供が二人あって、そして悲しいことに癌になってしまい死んだ
のです。ところがその後、堀田さんに出会いましたら、いつもの通りつやの良い顔でにこにこしなが
ら「いやー、もう結構な往生させてもらいまして」と言って、私がお悔やみを言えないようなお姿な
のです。三十三才の娘さんが死ぬということは父親としては本当にたまらないことです。悲しいこと
です。ところがこの光に照らされた世界を見ているこの方にとっては、悲しみではなくなってきてい
るのです。「あの娘はいつの間にやら私たち夫婦がやっているこの生活なり、言っていることを聞い
てくれましてね、知らん間に一つの真理を持っていてくれて、本当にありがとうと言って死んでいき
ました。病院の先生も看護婦さんも感心してくれる位、有り難い死に方をしました」と話しておられ
ました。それから手紙や日記が置いてあって、その日記を見ると大変満足していたことが書いてある
のみならず、最後には御主人に「誠に縁が薄くて、先に死ななきゃならなくて申し訳ないけれども、
どうぞ私が死んだ後は(癌ということを隠していたけれども本人は知っていたらしいのです)本当に
若いのだから、決して私には心遣いなく後添いをもらって下さい。それから子供達にはどうぞ仏法を
知らせてやって下さい」と残してあったそうです。その堀田さんの奥さんもいい方で信心深い方でし
たけれども、後に脳梗塞になりそして植物人間になってしまいました。堀田さんは若い者に世話をか
けては申し訳ないと言って、奥さんが植物人間になってから十年以上、ご飯から下の世話から、何か
ら何まで全部の世話をしました。そして一日に二回車椅子に乗せて、いろいろ説明してあげながらず
っと散歩に連れて行くのです。そして私が「えらいお気の毒なことで」と言いましたら「いやいや、
お陰で痛いも痒いも何も言わんとおってくれますので結構です」と言うのです。「あなたもしかし、
有り難うとも言ってくれない人の世話ばかりで気の毒ですな」と言ったら「いや、礼を言ってくれな
い人にする世話が一番有り難いです。これがほんまの世話ですわ。それがわかりますんや」と言いな
がらにこにこして「私ほど幸せなものはなかった。これも老先生(私の父の事です)のお陰やと思っ
ています」と言っておられました。奥さんは十何年生きてお亡くなりになられましたけど、そのあい
だ本当に喜々として世話をなさって、若い人には一度も世話をさせず、今八十三才で生き生きして法
悦の生活をしておられます。この方にはもう死も不幸もないのです。ただあるのは光明だけなのです。
こういう世界があるのです。
私の目の前にいる松村さんの事を言っては失礼ですけれどもお許しいただいて、この方のお父さんは
通産省の技官で科学者でした。そしてもちろん科学だけを信じておられた。科学以外は信じなかった。
ところが悲しいかな肝臓ガンになられまして、色々と手当をしたが段々と進行してゆき、いよいよ黄
疸が現れて、そうなったら当然のことですが、お医者さんからも、あと二・三カ月の命と言われた。
その時にふと仏教会のテープを聞いていただいたご縁でこの光をご覧になったのです。それから新し
い世界が開けて来たのです。それからずっとテープを聞いていただいて、そして法悦の中に生きられ
ました。医者の常識で分かるのですが、肝臓ガンの末期になって黄疸が出て苦しみが出だしたら二・
三カ月の命というのは当然のことなのですが、不思議なことに精神的な苦痛とともに肉体的な苦痛も
なくなりまして、そうして家にお帰りになったあと一年三カ月有り難い生き方をなさって、それから
もう一度悪くなってそのまま有り難く死んでゆかれました。亡くなった後、遺族は誰も悲しみを感じ
なかった。静かな喜びだけを感じて悲しみを感じなかったと言っておられました。目の前におられる
のですから嘘は言いません。これは事実です。こういう一つの世界があるのです。この世界の発見が
私たちの人生をして偉大ならしめる、そして人生をして輝かしめるようにするのです。これに早く気
づいたら幸せですが、今からでも気づかれたら全部取り戻せるはずです。我々の永遠の生命から比べ
ると人生の六十年八十年は瞬間にすぎないのですから。ですから私は、今日お呼びいただいた時にこ
ういう話をもし聞いて頂けたらと、嬉しく思って来させていただいたのです。
(以下、次号に続く)
(編集者付記 : 慈光会農場を折々に手伝ってくださっているKさんの日記です。この日記を
書くことになった経緯は、前号をご覧ください。)
四月二三日(木)(曇りのち雨)朝農場に入って小屋に向かう途中、僕らが乗るトラックの前を一羽の鳥が鳴きながら横切った。「何という鳥ですか?」と聞くと「あれは・・・だよ(僕が覚え忘れた)。もともと朝鮮半島からの渡り鳥だったのだけれども、日本に定住したみたいだね。」とYさんが答えられた。外国の鳥は日本で市民権を取っているようだった。
YさんとTさんは、摘蕾(てきらい)の作業に取り組み、ぼくはカマでフキを刈った。そして午後からはぼくも教えてもらって摘蕾を始めた。これがまた中々はかどらない。片手で柔らかい新しい枝を支え、片手で柔らかい小さな新芽を摘んでいくのは多少の慎重さを必要とする。生まれて初めて万年筆を使うのと同様に、力の抜き加減を知るには少し時間がかかりそうだった。小さい木を仕上げ、大きい木の2/3ほど仕上げたところで雨がひどくなってきた。今日の作業はきりのいいところで区切りをつけた。
四月二四日(金)(曇りのち雨)今日は朝からYさんとぼくの二人で摘蕾に取り組んだ。この作業は「スピードをあげて手早くする」なんてことはできず、しかも絶えず木の芽と「にらめっこ」していなくてはいけない。けれどもぼくは、工場でのベルトコンベアーの作業の様に肩のこりや目の疲れは感じなかった。(もしかすると植物にじかに接することはストレスと無縁なのかもしれない)。だが一日にほんの数本しか進まないのに、何十本もある柿の木の山をいくつも見ると、やはりこれは根のいる気の長い作業である。けれどもぼくは「まだあんなにあるの〜!」というがっくりするような気分はしなかった。何というか、いつまでやってもちっとも不自然じゃないと言う感じ。Yさんによると、この摘蕾を続けながらいろんな作物の種を蒔くそうである。
休憩の時Yさんがぼくに言われた。「K君、春蝉(春ゼミ)が鳴いていたね。」ぼくは枝をちぎらないようにと必死であり、ちっとも気が付かなかった。まだ四月と言うのに、気の早いセミはもう鳴きはじめているみたいだった。
この一週間、たまにひくことはあっても土砂降りの様な雨がずっと続いている。ぼくが「よく降りますね。」と言うと、Yさんは言われた。「異常気象だね。この時期いつもはこんなに降らないよ。一年間に降る雨の量は決まっているのに、今頃こんなに降ったんでは夏に水に困ることになるかも知れない。まぁ一応この農場には雨水を貯める一〇〇トン入りのタンクが二つあるけどね・・・。」
今日は雨を縫うようにして作業を続けた。Yさんは雲の色や動きを見ただけで、雨がくる時を予測された。午後から作業をしていると、西空の雲の色が険しくなってきた。Yさん「雨がちかい!」ぼくらはあわてて軽トラに乗って小屋に戻った。そこでいつものように雨がやむまで持参のお茶を飲みながら“なんのかんの”と話をして待ち、もう一回小屋のすぐそばの山でしばらく作業した。雨がひどくなってきたので今日は早めに切り上げ四時半頃農場を出た。
(編集者付記: その後Kさんは、お仕事の都合で、農場日記はここまでになっています。農場の自然の息吹をみずみずしく伝えていただき、この『慈光会への貢献』〈括弧付はご本人〉に心から御礼申し上げます。)
(レイチェル・カーソン著)
慈光会会員 井西 治
(この文章の形式
『』のマーク 本文引用箇所
↓のマーク 筆者の感想 )
今年も寒さの中で庭の柘の実が黒く光っています。毎年今頃になると、この柘の実を啄ばんだ小鳥たちが、玄関先の白っぽいタイルの上に夥しい黒い糞を落として飛びます。その黒に混じって鮮やかな赤い糞もありますが、これは万両か千両の実。放っておくとタイルに染み付いてとれにくいので放水して洗い流していますが、冬の朝にはちょつと面倒な仕事です。でも小鳥たちの賑やかな挨拶の後の出来事なので、あまり苦にはなりません。ところがです、今年はどういうわけか、この糞害が全くありません。当然小鳥たちの合唱も聞こえてはきません。なんとなく寂しいし、妙な感じの春なのです。
そんな折、このような新聞投書を見ました。「庭のミカンに小鳥が来ない」泉南市。「南天、万両、ピラカンサなどは今もぴっしり実がついている。メジロを呼ぼうとミカンを切りバラの小枝にさしてみた。五日目にやっとつがいできてくれた。ここへ越して一五年、こんなに鳥が来ない冬は初めてだ」奈良。「今年はいつもと違い、メジロ、ヒヨドリ、ジョウビタキ、シジュウカラなどが姿を見せない。堺に住んでいる知人も庭にメジロが来ないと話していた。レイチェル・カーソンが、四○年ほど前に『沈黙の春』で描いた虫や小鳥の鳴き声の聞こえない沈黙の世界が現実味を帯びてきているように思われる」これは河内長野市からの報告です。
私がこの書の存在を知ったのは、一〇年ほど前に読んだ有吉佐和子さんの「複合汚染」でした。一度読んでみたいと思いながらなかなか入手できず、やっと読んだのは、つい半年ばかり前でした。レイチェル・カーソン女史がこの書を発表したのは一九六二年、日本語の訳書は二年後の一九六四年となっていますから、もう三四年も前のことです。その頃はアメリカでも、自然破壊や環境汚染についての一般市民の関心がうすく、その空白をついて化学薬品製造企業の大量生産が始まったようです。「沈黙の春」は、このことによってひき起こされる地球生物の生存の危機を、世に訴えたカーソン女史の血涙の書だと思います。
それから四〇年、われわれはわれわれをとりまく自然環境の保全を、カーソン女史の警告に、どれほど忠実に応えてきたのでしょうか。現在の地球の自然破壊の凄まじさをみると、実に悲しいことですが、とてもその警鐘を受けとめてきたとは思われません。今ならまだ間に合う、望みはあるのだと叫んでいたのに…
そして今、すべての生命を育む大気も大地も川も海も、ダイオキシン汚染の恐怖に曝されています。どうしてこうなるのか、こうなってきたのか、「沈黙の春」をめぐって、私が学んだこと考えたことをお伝えしたいと思います。
「沈黙の春」プロローグ
『自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地みな黙りこくっている。』(引用 )
読みはじめた私の脳裏には、このうす気味悪い沈黙の風景が果てしなく広がっていきました。この風景はどこまで続くのであろうか、その果てにどのような世界が待ち受けているのであろうか。私は憑かれたようにページを追いました。
(以下、次号に続く)
慈光会の店先で、とうふサラダの試食がありました。いただいてみると、これがなかなかでした。お試し下さい。
作り方(三人前)
∇ キュウリは薄い輪切り(一本)
∇ にんじん(三〇g)は千切り(塩少々でさっともんでおく)
∇ わかめ(二〇g)は塩抜きして湯通し後一口大に切る
∇ 木綿豆腐(半丁)は一センチ位の角切り(絹ごしは崩れやすいですが、お好みにしたがってお使い下さい)
∇ あればレタスやアオジソの千切りを入れても。
涼しそうなガラスの器に彩り良く盛り合わせます。(混ぜないで、それぞれ盛り寄せます。)よく冷やして、好みのドレッシングをかけて供します。
簡単自家製ドレッシング
だし入り醤油にレモン汁少々加えて、超サッパリと。
∇ だし入り醤油5:酢1:胡麻油2の割合で混ぜた中華風ドレッシングで。ちょっとボリュームの
ある味です。
∇ すりゴマ、すりおろしにんにく、ねぎのみじん切り、砂糖、ラー油などを、お好みにしたがって
加えますと、いっそうパンチのきいた味になります。
市販のポン酢やごまドレッシングでも、とてもおいしくいただけます。